日でも立派に国家的、「学術的」、大学的な通用性を持っている。この極端な代表物が杉村氏の哲学であり、その粒々たる苦心の結晶が、多分今度の論文だろうと思う。
経済学と哲学とに両股かけていようと、経済学でもなく哲学でもないにしても、それから又、こうした苦心が結局は玩具製造人の苦心に類するもので仮にあったとしても、今日の大学がこの「学術的」労作を握りつぶし得る義理ではあるまい。――杉村氏や少壮助教授や学生達が「学術刷新」と「学園振粛」とのために起とうとしているのは、正にこの意味なのである。
ブルジョア大学が、アカデミックに又恐らくギルド的に申し分のないこのブルジョア科学的労作を「学術的」なものと認めないとすると、一体今後大学は、どうする心算なのだろう。之はブルジョア大学がみずから墓穴を掘るものでなければなるまい。問題は所謂、「大学」(独り東京商大に限らぬ)自身の問題であって、杉村助教授の問題ではない。杉村助教授その人の問題としてなら、いくらでも途は開かれているので、氏がブルジョア・アカデミーの「学術」的なエクスタシーから、之を機会にして、正気に帰るということも、一つの手であるかも知れない。
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