を待っていることを、彼自身その時知っていたかいなかったか、それは想像の限りではない。
彼は今度ですでに四度目のデビスカップ戦に行く処だった、現に昨年の秋デビスカップ戦を済まして帰って来たばかりだ。だから文部省の留学生のように郷愁に襲われるような柄ではない。けれども同行の西村選手からの電報によると、彼の脳中には何かある邪念が巣くっていてそれが彼をたまらなく不安にしていたらしい。タオルを鷲づかみにして額から両眼を何遍も何遍も拭きながら、そうした苦衷を同僚にもらしたというから、その懊悩の姿は眼に見えるようだ。何かの固定した恐迫観念が脳神経にコビリ付いていたのだろう。すでに昨秋帰朝した時以来、友人の語る処によると、数多の奇行が目立つので、友人は無論のこと、庭球協会の幹部中にも派遣反対の意見は強かったという。それがどういうわけか、恐らく当人自身も気分を転換するに好いと考えたかも知れぬ、箱根丸に乗って了ったのである。だが恐らく乗ってすぐに後悔し始めたことだろうと思うのだが。
船の中での彼の懊悩を見て一等事物を公平に親切に考えたのは船長であったらしい。船長は先にも云ったように、帰国することを勧め
前へ
次へ
全402ページ中163ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング