家には病人があり……」と云って泣き出して了ったというのである。念のために云っておくが、泣き出したのは子供の方ではなく母親の方なのである。新聞の話しでは、之を聞いた一行は、さすがにホロリとさせられたというだけで終っているのだが、それから先が問題ではないかと思う。
実の子ならばまず大抵の親は虐待などはしたくない筈だ。それを「虐待」しなければならなくするのは、云うまでもなく親子の生活のためだ。それから本当に子供を虐待するのは、所謂「親方」や雛妓《すうぎ》の抱主だろうが子供を親方や抱主に渡す親達は云うまでもなく生活の必要に迫られるからだ。親爺がのんだくれだとか何んとか云っても、相当の収入でもあればやたらにのんだくれになるものではないので、之も結局生活の不如意からだ。虐待を除いても虐待の原因を除かなければ、何等の根本政策でもあり得ない。
なる程九月三十日には、街頭で発見された虐待児童は乞食二十一名、辻占売十五名、新聞売十一名、遊芸十名、絵本売六名、コリント台売四名、花売二名、合計六十九名だったのが、この法律実施の初日である十月一日には僅かに辻占売一人と乞食三人としか広い東京市の街頭で発見されなかったと新聞が報じているから、該法律の効目には目ざましいものがあるようだが、所が、一方九月三十日迄に来たお酌の就業届出数は、例年よりも三〇〇件を増しているという、裏の事実もあるのである。
既に就業している雛妓には、何故かこの法律は適用されず、今後就業しようとするものだけに適用されるというのだから、九月三十日を名残とばかり雛妓就業届出が殺到するのは当然である。それでこれら既成雛妓の抱主達は、例の吾妻橋のルンペンお袋のように、メソメソ泣き出さなくて済んだわけである。――何しろ、高が流しの門付け修業には殆んど資本はかかっていないが、雛妓にまで就業させるには原料の費用も加工費もかかっている。之を賠償しない限り、児童虐待防止法と雖も承知は出来ない。
大人でもあり余っていて子供なんかはどうでもよくなった工場や海運業に於ては、児童労働禁止は可なり前から実施されている。道徳的な法律は凡て抵抗の弱い処から適用を着手するらしい。児童虐待防止法が芸者屋よりも先にルンペン親子の方へ、適用されるのは必然である。
児童虐待をしてはいけないという名目上の禁止は之で出来上ったが、前借住込みという形式の極東アジア的人身売買をしてはいけないという禁止令はまだ出ていないようである。併しそんなことまで構っていると問題は限りがなくなるのである。今に男の大人の虐待までも問題にしなければならなくなるだろう。労働者や農民の失業者の日常的な社会的虐待、又之に学生やインテリを加えての警察的虐待など、こうしたものに対して一々禁止命令を制定していては切りがなくなるわけである。禁止令はなるべく狭い範囲にだけ実行されて纒りがつくような種類のものから、先に選ぶべきだろう。そうしないと労多くして効少ないからである。児童虐待防止法などは、それには持って来いの、小ジンマリした理想的な法律ではないか。
[#地から1字上げ](一九三三・一〇)
[#改段]
林檎が起した波紋
一、林檎の場合
多分読者は東京に六大学リーグ戦というものがあるのを知っているだろう。五つの私立大学に東京帝大が加わって出来ているが、帝大には応援団もなければ大したファンもいないそうで、そのせいかどうかこの頃帝大の成績は問題にならない程悪いそうである。で帝大は云わばおつき合いに出ているようなものだから、本当をいうと五大学リーグ戦と云ってもいい位いだそうである。日大・専修大其他から出来ている所謂五大学リーグ戦と違う点は、日大などを決して入れてやろうとしないという処にあるので、即ち決して七大学リーグ戦などにならないということがその本質の一つだ。処が実はそれが六大学リーグ戦ではなくて五大学リーグ戦に外ならないのである。
併し、この頃時々優勝するという立教や法政が、仮にリーグを脱退してもリーグにとっては大して問題ではないだろうが、之に反して、もし仮に早稲田か慶応かが脱退するとなったら、リーグ戦の価値はまず殆んど零になるだろう。云わば六大学リーグ戦は、早慶戦を合理化するために出来上ったようなもので、又早慶戦を中心に行われているようなものだ。こうなると六大学リーグ戦、実は早慶二大学リーグ戦だということになる。
早慶を除いた外のリーグ加盟大学は早慶のおつき合いに引き出される刺身のツマのようなものだが、それで早慶外のリーグ加盟大学が損をしているかというに決してそうではないらしい。帝大は学問の上では兎に角(無論学生の学問のことで教授の学問になると仲々問題が多いが)、カレッヂボーイシップ(?)の上では問題にならないが、それでも野球部はたしか
前へ
次へ
全101ページ中25ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング