大使が希望条項として提示した上海市党部の撤収を事件の根本的解決策と思考し、従来の措置では未だ全的に満足することは出来ない。この実状に鑑み、中央党部が一日も早く自発的に上海市党部の撤収を断行することを期待する」と(七月九日東朝紙)。だからここで明らかなように軍部は外務当局の交渉振りの監視に任じているのである。単なる個人の意見として、右のような言明が出来る筈はない。――それに就中注目すべき点は、党部の撤収なるものは日本の軍部否出先軍部が、北支問題でもチャハル問題でも持ち出して中国側に容認させた根本要求の一つだということなのである。だからこの点で、不敬事件に就いては、北支事件――チャハル事件――不敬事件、という具合に話しがうまく続くのである。
軍部のこの監視[#「監視」に傍点]振りは併し、上海に於ける日本人居留民にそのまま反映している。民団各路連合会では緊急会議を招集して当局(即ち外務当局)を鞭撻すべし、という意見が一時有力となり、軟弱外交(之が日本の外務省に関する伝説である)を文書で痛罵する者もあるというわけだ。併し海外に居留する日本人の動きなどは、××××××××すべきものではない。現地[#「現地」に傍点]や局地[#「局地」に傍点]に眼がくれて、それに植民地根性丸出しが多いから、一般社会的な問題にすべき現象ではない。こうした云わば居留民的ファッシズム[#「居留民的ファッシズム」に傍点]とは関係なく、日本は東洋の平和のために、忍ぶべからざる行為をも忍んで遂行しているのだ、ということを忘れてはならないのだ。
一体北支問題は、広田対支外交に基いて日支経済提携が成り立ちそうになった丁度その時に、不幸にして突発したものだった。吾々は折角出来かけた東洋和平の基礎が、際どい処で覆されたと思って失望したのだが、併し雨降って地固るの喩えもある通り、外務省式の二階から目薬的な日支親善の代りに、北支事件の結果成功しそうに見えるものは、もっと手近かの「北支経済援助」だったのである。一般的な日支親善の代りに、北支那に於ける日満支経済ブロックが成り立つことになった。つまり日満ブロックの北支進出ということだ。之が北支の例の緩衝地域の意味でもあったのだ。――だが北支問題の結果は単に北支に於ける日支親善だけではなく、夫が同時に国民党中央部の多少の勢力偏成がえを伴った結果、親日派の権力の増大を来したので、一般的な日支親善の実質も亦段々物になりかけて来たと世間では云っている。
これほど結構なことは、支那にとっても又とある筈はあるまい。例えば今まで云わば一種未開の地であった北支那に、鉄道網が敷かれたり、製鉄、石炭、電業、電信、電話等の産業交通が愈々盛大になったり、満州国の貨幣が一律に通用したりすることによって、北支は全く文明開化されるわけだ。イギリスはこうして印度に恩沢を施した。日本はそれを更に親切な仕方でやるのだから、支那側に文句のある筈はないのである。――処が頑迷固陋の中国人は、自分の畑を他人が耕して呉れるのを、どういうわけだか余り歓迎しないのではないかと思われる。例えば当然無条件に支那側が恐縮して然るべき例の不敬事件に就いても、中国国民は必ずしも恐縮してはいないらしい。却って、この事件の責任者の公判廷には、排日宣伝ビラが貼られたり、傍聴人が被告と握手して之を激励したり、弁護人と傍聴の党員とが計画的に騒擾を起こしたりしているのである。傍聴者達は騒擾を起こしておきながら一人として逮捕されるものがないどころか、凱歌を奏して法廷外に出て行ったというのだ。
日本側代表と日本国民自身とが同じ意見か××××××××が、少くとも中国に於ては所謂親日派なる中国側代表者と中国国民とは日支関係に就いてまるで別な意見をもっているらしい。すると日本は否少くとも日本側代表者達は、中国国民そのものとは全く別な何物かと、和平の握手をしたこととなる。すると例の北支の文明開化の聖業なども、果して中国国民(北支那はまだ中国政府の領土なのである!)にとって利益になるのかどうか当てになったものではない。現にこの北支産業開発に際して、一等痛手を蒙るものは従来の蒋介石氏の二重外交を支援する浙江財閥だと見られているが、それでは日満の助力によって北支国民大衆の大衆財閥(?)とでもいうものが支配するのかというと、そうではない。そこに支配するものはより有力なブルジョアジーとより優雅な兵備とである。自分でなくて他人が住んでいる立派な建築や、コンクリートの立派な軍用道路を見て、自分までが幸福になったと思い込む人間は、よほどの田舎者だ。中国国民が悉くこの種の田舎者でない限り、日満的パックス・ローマナ(Pax romana)ローマの平和も心細いものだ。
処がまだまだ、この日満的パックス・ローマナには他に問題がある
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