せ何か裏に変なことが潜んでいるのだろうと思っていると、果してこの事件をキッカケに、長崎医大の「学位売買事件」なるものが展開して来たのである。何と云っても「医学博士」には散々苦しめられて来ている世間の大衆は、それこそ江戸の仇を長崎で討ったように、私かに、やや見当違いな溜飲を下げているものもいるようである。
事件の真相は無論まだ判らないが、長大の勝矢教授が弟子を博士にしてやる毎に数百円ずつの金を取っており、又その他様々な収賄をやっていたということが判ったらしく、これに就いて贈賄者として四五名程の同博士門下生の博士達がいるのだそうで、この六名は遂に強制収容の上起訴されて了った。収賄の嫌疑濃厚なものは少くとも他に二名の教授を数えることが出来、また贈賄の容疑者は全国に及ぶかも知れないということである。それからこの問題は単に独り長崎医大だけの問題ではなく、全国医科大学乃至は医学部にも拡大するかも知れないと云われている。そうなると又、単に医科や医学部ばかりではなく他学部にも飛火するのではないかと心配する向きさえあるようである。
長崎医大では、当の勝矢博士の弟で矢張医学部教授をしている人が、大学の不潔を潔しとしないで辞職するし、学生は勝矢博士以下三教授の試験を受けないと主張するし、学生、卒業生、助手、助教授達は大学浄化の運動を巻き起こそうとしている。確かにこれは祓い潔めの儀式としては甚だ当を得た行動だと思うが、儀式は要するに儀式に過ぎない、「医学博士」の本質はそうむやみに祓い潔めることの出来るものではないのだ。
世間では医学博士の濫造[#「濫造」に傍点]を盛んに気にしている。あまり多数に製造すると博士の価値を落しはしないかという心配であるらしい。だがどんなに沢山医学博士を造っても、それによって博士の価値が下るとは受け取れない。生産過剰で博士がアブレたり、ダンピングで博士が安くなったりするのは明らかだが、それは博士の価格[#「価格」に傍点]が下落することで誠にあり難いことだが、それは必ずしも博士の価値を下げることにはならぬ。価値と価格とどう違うのかというなら、まずマルクスの資本論の初めの部分でも読んで貰うことにしておく。
なる程医学「博士」は濫造されている。今日全国の博士約九千人の内、医学博士は約六千八百人。一日平均三人三分の割で製造されているということだ。某帝大医学部では、或る年の博士製造高が同年の同学部の卒業生(即ち医学士)の数を遙かに超過したという珍現象をさえ惹き起した。だが医学博士の数が多いということは、日本の医学の発達の証拠にこそなれ少しも恥しいことではない。第一官立の医学部乃至医科大学だけでも、他の学部乃至単科大学に較べて、その数が非常に多いということを忘れてはならぬ。その多い各大学から卒業する医学士の数は又、決して文学部や農学部の比ではないのだ。而もこの卒業生の大多数が、副手や助手として、又大学院学生として、研究室に残る。研究室に這入ったが最後、特に先生と喧嘩でもしない限り、多分大して贈賄しなくたって研究室に掛っている札の順序に、右から自然に博士になって行く。
大学を出なくたって、どこかの医専でも出てすぐ大学の研究室の研究生になって、ドイツ語の勉強傍々やって行けば、非常に早く医学博士になれる。之なら二十六七歳で大丈夫博士になれる。但しあまり良い処へ就職の世話はして貰えないという覚悟が必要だが開業にはさし閊えない。
だから医学博士が多いということは、日本の医学がこれ程までに組織的に発達していることの証拠であって、大いに慶賀すべきことでなくてはならぬ。大学を出てから三年間も夜間診療程度の内職は別にして何の職業にもつかずに、朝から晩まで研究室で研究すれば大抵の馬鹿な人間でも一人前の研究結果は纒まるもので、それだけ学資も掛る代りには、専門家としての勉強も自然とせざるを得ないわけだし、又一般的な常識も多少は進歩するだろうから、立派に学位に値するだけのものはあるのである。卒業生にアルバイトの意識が低く、教授に年の功を以て学問を計ろうとする癖があるような、他の専門に較べれば、日本の医学はたしかに進歩しているし又進歩するように出来ている。
だが何だってこんなに日本の医学は「進歩」して了ったのかということになると、夫は又別問題だ。即ち、何だってこんなに沢山の人間が医学博士になりたがるのかは別問題だ、それは云うまでもなく医学博士というのが博士の内で最も高価な価格を約束するレッテルだからである。散々使った上で医学博士の学位を返上しようとした人もいたが、夫は又逆手であって、普通には医学博士のレッテルを手に入れるためにはみんな一族の資産を傾けて命がけの努力をするのだ。だから医学博士は凡て立志伝中の人物と思えば間違いはない。医学博士にボラれたと
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