いたのだそうだ。住職の今更ながらの史跡擁護づらが滑稽だというのである。私も大方そんなことではないかと思っていたのである。もしこれが本当だとすると、「日本国民思想に影響を及ぼすことの大きい」点も「社会風教上遺憾」な点も、一部分はこの住職の責任にもなろうというものである。住職は人ごとのように史跡蹂躙呼ばわりをするのをチト気を付けなければなるまい。
だがそれで何も、教授の罪が軽くなるわけでも何でもない。一体何だって、こうした発掘事件をまで、思想問題[#「思想問題」に傍点]という形で騒ぎ立てる必要があるのか、という点が問題なのだ。
歴史家が史跡擁護を唱えるのは多分、歴史研究の資料を保存するためだろうと思う。処で古墳などを発掘するということが、とりも直さず歴史研究の資料を見出す絶好の機会ではないかと、そう素人の私は想像している。そうすると墳墓発掘ということは場合によっては歴史研究なのだから、歴史家は強《あなが》ち墳墓発掘を一概に非難出来ない義理合いにあるわけだ。この墳墓発掘が古跡荒しになるからというだけの理由ならば、別に之を思想問題呼ばわりする[#「呼ばわりする」は底本では「呼ばりわする」]必要はないのだし、単に窃盗ならば問題は警官が宗教罪に一任すれば解決する。
思想問題にうなされ[#「うなされ」に傍点]ている或る種の人物には、何でもかでもが思想問題になって見える。単なる墳墓発掘が思想問題ならば、死体の解剖をすることだって思想問題になるだろう。尤もこの頃では、死体の解剖をしない[#「しない」に傍点]ことの方が実は思想問題なのであるが。
今年の国展は仲々いい展覧会だった。
今迄のゴミゴミした絵や、情実関係としか見えない拙い小品が、すっかりなくなったのは、今年の審査の出来栄えだった。展覧会も甘くして入選者の御機嫌ばかりとっていないで厳選にして呉れた方が観る方は助かる。
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しかし西洋人のクレヨン画みたいなものが沢山並んでいたのは、どう云うことか、素人には解らない。あれは子供の自由画みたいなものだが、展覧会にあんなに沢山ならべるもんですかねエ。
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梅原龍三郎氏の小品三点は、小さい乍ら立派なものであったのは、流石名匠の腕であるが、自分が大将である展覧会だから、もう少し大きいものを沢山みせて貰いたかった。見物はそれを楽しみに行くんですからね。
川島理一
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