ゥ然弁証法を理解すれば、この観念の歴史はギリシア自然哲学に遡る(ヘラクレイトス、アリストテレス)。だが特に問題となるべきものは十八世紀以降に属する。一方に於てビッフォン(Georges Louis Leclerc de Buffon)やサンチレール(Saint−Hilaire)の生物乃至自然の進化の思想(之は実証的検証を経た主張というよりも寧ろ単なる思想に過ぎなかったが)、他方に於てカント(I. Kant)の天体発達史乃至宇宙発達史の観念が、自然弁証法の先駆となる。之は後にライエル(C. Lyell)を経てダーウィン(C. Darwin)の進化理論となり生物界に於ける自然弁証法の礎石を築いたものである。併し所謂自然弁証法は之とは独立に発達した。カントの引力と斥力との対立の観念やシェリング(Schelling)の自然哲学の分極の理論に基いて、ヘーゲル(Hegel)の自然哲学が組織されたが、之は自然が弁証法(但し概念の弁証法)によって貫かれていることを主張するものであった。かくて自然弁証法は、ドイツに於ける自然哲学のテーマとして発達した。デューリング(〔E. Du:hring〕)は一応唯物論の立場から、「自然的弁証法」という自然哲学を試みた。
今日の自然弁証法はエンゲルス(F. Engels)に基く。之は明らかにデューリングの業績と関係があるが、エンゲルスに固有な特色は、この自然弁証法が完全に唯物論のものであって、観念論乃至形而上学のものでなく、従って自然の真の弁証法だという処に存する。もはや之は自然哲学ではなくて、却って自然の自然科学的研究に於ける個々の問題(テーマの立て方、概念の構成法、概念の使用法、理論の立て方、其他)に就いて、その統一的な解決指針を見出すことを目的とする。自然科学の外に自然哲学の弁証法的体系を立てるのでもなく、又自然科学の成果の単なる総合に弁証法を持ち込むのでもない。自然科学の研究の過程そのもののうちに弁証法が必然であることを証明し、自然科学的研究そのものを意図的に促進させることを目的とする。この事はおのずから、弁証法の自然に於ける証明ともなるのである。――マルクス(K. Marx)はダーウィンの進化理論を以て自然界の歴史の唯物弁証法を証明するに外ならぬものと見做した。彼の史的唯物論はその意味に於て社会の自然史(博物学)だと説明される。かかる史的唯物論の本質(唯物弁証法)を自然に於ても貫こうとするものがエンゲルスのこの自然弁証法である。
自然弁証法の一般的な特徴は、自然が一つの歴史的過程であることの認識である。従って自然には絶対的に固定したものはなく、又他から絶対的に孤立した部分もない。一切の自然諸現象、諸事物は、歴史的に変化するものであり相互に連関あるものである。之は諸事物、諸現象の相互浸透即ち又対立の統一ということに他ならぬ。この意味に於いて又自然の一切の事物現象は矛盾と矛盾の自然的棄揚(否定の否定)とに基く。以上は自然という主観から独立した客観的存在そのものの根本法則に他ならぬ。―次に此自然そのものを研究する自然科学は、自然に関して弁証法的な諸概念を持たねばならぬ筈であり、事実また自然科学の歴史は逐次に自然の弁証法的観念に向って発達しつつあるのを告げているのが事実である。自然科学者自身は弁証法の観念を自覚しないが故にこの点の自覚が欠けているのがこれまでの多くの場合だが、自然弁証法の観念を意識することによって、科学的研究方法は意図的に促進されることが出来る。現代の所謂自然科学の危機や新物理学に於ける諸変革は、恰も自然と自然科学的諸概念とが、弁証法的なものでなければならぬということを、告げているものに他ならぬ。之こそ現代に於ける自然弁証法の証明だと見做される。以上は自然科学的研究方法が自然弁証法によらねばならぬことを示す。
自然弁証法の観点に立つことによって初めて、自然は社会や観念界との世界観統一を得、自然科学は他の諸科学との方法論上の統一を得る、と考えられる。
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参考文献――エンゲルス『自然弁証法』(岩波文庫上・下)。『自然弁証法』(唯物論全書)。
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[#中見出し]実在論 ジツザイロン 【英】Realism【独】Realismus【仏】〔Re'alisme〕.[#中見出し終わり]
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広く観念論乃至理想主義に対す。観念乃至理想でない処の事実乃至現実を以て、思考乃至情意の出発点乃至根拠とする思想。但しこの事実乃至現実が何であるかによって、実在論には無限の種類が含まれている。少くとも文化乃至学問の領域如何によって、問題となるべき事実乃至現実なるものが夫々異る。例えば芸術に於ては写実主義となり、倫理乃至道徳に於ては現実主義となり、神学に於ては実念論となる。哲学で実在論と呼ばれるものは、主として認識理論の一つの立場を云い表わす。又哲学でも数理哲学では数学的実在論となる。問題を哲学乃至認識論に限定しよう。
実在論の最も典型的な模型は、素朴実在論である。之は、人間の認識は与えられた客観的事物をそのまま模写するものであるという主張に立つと云われている。処が観念論者は之れを批判するに際して様々の改釈を施すのであって、或いは客観的現実そのものが、全体的に一遍でありのままに模写されるという主張に直したり、或いは逆に、人間の意識にのぼるものがそのまま実在に照応するという主張に直したりする。前の場合ならば認識の発達・誤謬の発生というものの説明が出来なくなり、後の場合ならば、空想や妄想と現実性のある観念との区別はなくなる、と云って非難する。のみならず、実在が主観に対立する客観のことであるとか、又認識とはこの客観を鏡のように写すものだとかいう考え方は、全く常識的な観点を出ないもので、批判と反省とを経ない素朴な認識論にすぎないと非難されるのである。自然科学者は往々之を採用すると云って非難される。
併し実際に観念論からするこの二群の非難に相応する実在論は、恐らく哲学体系として未だかつて無いのであって、之は観念論によって非難されるべき模型として、観念論者自身によって考案されたものに過ぎない。素朴な常識や自然科学者の観念と雖も右のような注文の通りには出来ていない。客観的事物をその儘模写するということは、その全体を一遍に写すことが出来るということとは無関係であるし、また夫を逆にして、意識された通りが実在そのものの姿であるという主張とも関係がない。実在そのもの、物自体、を順次に科学的な手続を経て歴史的に模写して行く過程を考えれば、この第一群の非難は無意味となる。―次に実在を客観と考えることには実在論固有の理由があるので、主観的恣意から独立な処に哲学の根拠を求めようとする必要から来る当然の帰結でなければならぬ。各種の実在の内でも特に客観的存在が就中実在としての資格を有っているという主張であって、もしこの主張に根拠がないとすれば、同様に観念論の存在観にも根拠がないということになる。それから認識は模写だという模写説は実は認識そのものの一つの説明というよりも、認識ということの同語反覆的な云い直しに他ならぬ。認識は一切の実践的理論的手続を介して成立するのであるが、併し認識と認識される客観的事物との直接関係は、全くの直接関係であって、その間に何等の媒介物を有たない。それがありのままに写すという言葉の意味である。之が丁度現物がエーテルという虚空のみを介して鏡に像を結ぶ関係に喩《たと》えられて、認識するということを写すというのである。従って所謂模写説に対する非難は本末が顛倒しているのである。
さてこういう風に弁護された限りの所謂素朴実在論とは、要するに唯物論の認識論のことに他ならない。事実唯物論はそれが素朴実在論であるということによって非難されて来た。処がその素朴実在論とは、観念論者が唯物論の実際の主張とは無関係に仮想敵として造り上げた勝手な改釈によるものでしかなかった。常識や自然科学者が信頼すると云われる所謂素朴実在論とは、正確には唯物論のことに他ならない。この唯物論の哲学的権利については今日一般に知られている。
だが素朴実在論とは区別しながら、自分の体系をなお実在論と呼ぶことを欲している哲学者は可なり多い。「新実在論」や「観念的実在論」(Ideal−Realismus)等が夫である。併し之はいずれも、観念論にも慊《あきた》らず、さればと云って唯物論を名のることにも一種の羞恥を感じる処の、実際の意図に於ては唯物論に向っているが意識された意図に於ては之を承認することの出来ない処の、一種の観念論者の自己弁解のための名称と見ていい。即ち実在論(それには無限に様々の種類があるが)とは唯物論とみずからを名のる勇気のない場合の、唯物論の代用物に外ならず、曖昧にされいつも抜け道を気にしている処の唯物論である。
実在論と直接関係あるものに他に経験論がある。経験論は先天主義(先験主義乃至合理主義)に対立するのであるが、カント(I. Kant)の特徴的な表現を用いればカントの体系の如きは先験的観念論であると同時に経験的実在論であると云われる。ここでも見られるように経験論の立場に立つ時、認識理論はおのずから実在論とならざるを得ない。―併し経験論は必ずしも唯物論的なものに限らず(フランシス・ベーコン F. Bacon の唯物論とバークリ Berkeley の観念論、唯心論とを比較せよ)、経験は主観的なものとも主客合一のものとも考えられる。従って実在論にも亦、それが経験的意識の事蹟乃至現実を実在と考える限り、主観的乃至主客合一的な型のものが存する。先きの「新実在論」の或るものやまた「実在的観念論」(Real−Idealismus)が之であって、之は云わば羞恥《はにか》める観念論と呼ばれるべきだろう。
羞恥める観念論[#「観念論」は底本では「親念論」]又は羞恥める唯物論としての実在論は、今日では更に実在論という名称にさえ羞恥を覚えるのを通例とする。事実実在論という名称は普通過ぎるので一定の哲学体系を特色づけるのに有効ではない。そこで現在では存在論という名称が選ばれる。「実在」という中世的形而上学的実体の観念の代りに、「存在」というギリシア的観念がおきかえられる。かくて実在論が云い表わそうとする唯物論的同感と同時に又観念論への気がねとが、特に特徴的に統一されて、表現されるのである。
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[#中見出し]プラグマティズム 【英】Pragmatism【独】Pragmatismus【仏】Pragmatisme.[#中見出し終わり]
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普通実用主義と訳すが適訳でない。この言葉は、プラグマ(身廻りの用具)という言葉から導かれ、パース(C. S. Peirce)の書物[#横組み]“How to make our ideas clear? 1878”[#横組み終わり]に由来する。ウィリアム・ジェームズ(W. James)によって著明となる。ジェームズによれば、この哲学は特に新奇な哲学体系を意味するのでもなく、又新しい見地を意味するのでもない。古来の或る考え方に名づけた名にすぎぬ。単に知識を獲得するための方法を説明するものに過ぎない。之は一定の定説や独断でもなく、研究の結果を意味するのでもなくて、却って新しい真理の発見へ導くための考えであり、より以上仕事をするためのプログラムであるという。彼はプラグマティズムを、一切の知識が一旦そこへ出なければ動きが取れないという意味で、多くの個室に通じる廊下に譬えている。
プラグマティズムに於て最も特色のあるものはその真理の概念である。真理とはそれ自身に価値があるのではなく、それによって初めてよりよく理論的実践的な仕事が選ばれ促進展開されるような、そういう底の性質を持ったもののことを意味する。人間の生活は理論的なものも実践的なものも結局実際的な
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