ばれる)であり、之に対して前者が自然弁証法である。
観念論的弁証法の立場からすれば、自然弁証法は成立しないとも考えられる。弁証法は広義に於ける意識自身の内にか、又は意識と存在との交渉に於てしか成立しないと考えられる。なぜなら弁証法というものは何等かの意味に於けるロゴスに関係して初めて意味のある観念であり、この点を外にして吾々は之を自証する術はないので、意識から独立した限りの自然に本来弁証法が固有であるという主張は、証拠立ての術がないことに就いて天下りの主張をなすという意味に於て、神秘的命題だと考えられるからである。この立場から云えば客観的存在にして弁証法的であり得るものは、歴史的社会だけだということになる(コルシュ―K. Korsch やルカーチ―〔G. Luka'cs〕 等が之を代表する)。又自然が弁証法的であることを認めるも、自然そのものが主観的契機や意識としての或る意味を有つと考え、従って所謂自然そのものには弁証法を拒否する者もある(田辺元、西田幾多郎の諸氏)。――併し之に対する反駁は唯物論そのものの主張から行われるべきで、必ずしも自然弁証法の問題に限った論点ではない。
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