t説を指摘するということは結局、運動及び多が平面的な理性によっては構成出来ないということを無意識的に気付いていることに外ならぬ。即ち運動及び多は(吾々の言葉で云えば)ただ弁証法的にしか把握出来ないことを適《たま》々裏から告げているのである。ゼノンによれば存在は矛盾を含むことが出来ない、然るに運動及び多は矛盾的にしか把握出来ない、だから運動及び多は存在しないというのである。彼にとっては矛盾のあり得る場所は決して存在ではない、あるとすればそれは主観的な思惟に於てである。かくて彼の意図に反して彼自身が指摘せざるを得なかった所の弁証法は、主観の内にその位置を持つ(後にアリストテレスはこの点からゼノンを弁証法の鼻祖だと書いている。ゼノンは運動及び多の概念を一旦肯定する事によって其の否定を導き出した、この点に於ても亦彼は弁証法的であった)。ヘラクレイトス(〔He^rakleitos〕)はエレア学派と全く正反対な存在の概念を有っている。彼によれば存在は一者ではなくて多であり、従って分裂であり闘争である。存在は相互に闘争することによって初めて生成するのであり(「闘争は万物の父」)、従って存在は変化、運
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