ゥるから、事物が固定化され絶対化されるということ自身が、この立場から見れば之を流動化し相対化すことを意味する。機械的な区別の代りに生きた相互浸透があり、機械的な結合の代りに、対立したものの間の統一がある。――つまり弁証法は形而上学の反対なのだ、とヘーゲルは説くのである。(但しここに形而上学というのはカントが批難しようとして果し得ず又徹底的には排除しようと欲しなかったあの形而上学の意味であるが、併し新カント学徒達が、認識論に対立させている処の哲学の暗黙に公認されている一分科としての、あの形而上学ではない。)
 ヘーゲルによれば形而上学を批判しようと試みたカント自身、依然としてこの形而上学の立場(即ち形式論理学・機械論)に立っている。その著しい例はカントの物自体の概念であって、之はカントによって現象から絶対的に隔絶されて了っている。物そのものはカントのように機械的に之を現象から隔絶孤立して了えばこそ、形而上学的観念となるので、物そのものとその現象との関係をこのように絶対化すること自身が、形而上学的だったのだ、というのである。
 ヘーゲルの弁証法を今茲に詳しく説明していることは出来ない。併し
前へ 次へ
全200ページ中192ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング