認識ではない、処が真理ということは実在がありのままに捉えられた状態を云うのである。実在をかくありのままに捉えるという直接性を云い表わすべく、原物が何物の介在をも許さずに直接に鏡面上に像を結ぶことで之を喩えたわけである。認識という観念の意味は常に、写すということである。そしてこの写すということの実際が実践に俟つのである。
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[#1字下げ][#大見出し]2 『教育学辞典』[#大見出し終わり]
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[#中見出し]イデオロギー 【独】Ideologie【仏】〔ide'ologie〕【英】ideology[#中見出し終わり]
[#ここで字下げ終わり]
【意義】 観念形態と訳す。この観念は異様な変遷と変化とを有っている。
(一)[#「(一)」は縦中横]語の起りはフランスのデステュット・ド・トラシー A. L. C. Destutt de Tracy(1754−1836)やカバニス P. J. G. Cabanis(1757−1808)等の観念学(イデオロジー 〔ide'ologie〕)にある。観念学によればあらゆる問題は観念哲学的研究に基いて解決されねばならぬと考えられ、観念の起原発生を感覚論的に研究することが哲学的方法と考えられた。この学問は感覚論的である限り一種唯物論的な特色を有っていたが(コンディヤック 〔E'. B. de Condillac〕 の感覚論から由来する限り)、併し他方例えばメヌ・ド・ビラン Maine de Biran(1766−1824)の内部的人間学へ連なるものを有っている。と云うのは、問題の出発点が観念の問題に限られ、事物を観念の関係に於て処理しようとする結果、問題の解決自身が観念的となり、即ちまた観念論的とならざるを得なかったのである。その結果、この学問によって、事物は現実的に解決される代りに、哲学的な単なる言葉によって解決されるという弱点を将来することとなり、空疎な言辞と大言壮語の類がイデオロジーだと考えられるようにさえなった。同時に哲学的空言家がイデオローグ 〔ide'ologue〕 と呼ばれるようになった。ナポレオンがデステュット・ド・トラシを「イデオローグの巨頭」と呼んだことは有名である。以上は十八世紀のフランスのイデオロギーであるが、哲学的空言という意味のイデオロギーなる語はやが
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