に含まれる燐に依るものだと説明した。この生理学的乃至化学的唯物論は併し結局力学的唯物論に帰着する外はない。何故なら生理学も化学も力学の特殊の場合に過ぎないだろうから。ビュヒナー(〔L. Bu:chner〕)はそれ故、その唯物論をエネルギー不滅則に基けた。
 十七世紀から十九世紀にかけてのこの唯物論は、物質の力学的・機械的作用を集積することによって、生命乃至精神が成立すると考える。その限り悉く之は機械論的唯物論の範疇を出ない。その際物質と考えられたものは、そして悉く物理学的範疇としての物質の範囲を出ない。物質はどのように運動しても、それ自身の質を依然として変えない所の、その意味では動かない、死んだ存在でしかない。これは精神との間に永遠の溝を有たざるを得ないのである。
 フォイエルバハ(L. Feuerbach)は併し、この種の唯物論者からは非常に距っている。彼にとっては、存在とは物理学的な物質ではなくて、より哲学的な概念としての自然であった(人々は唯物論が自然主義に結び付く場合の典型をこのフォイエルバハに於て見るべきである)。自然が最も具体的な内容ある存在だというのである。自然は本来の存在であり、意識は二次的の存在に過ぎないと考えられる。併し彼による自然は、恰もシェリングの絶対者のように、永遠にして不動な自己同一者と考えられる。そこにあるものはシェリング風の自己同一であって例えばヘーゲル風の弁証法的運動ではない。之に相応してフォイエルバハは、人間をば、単に自然を受容する能力たる感性によって特色づける。と云うのは人間は自己の実践によって自然に働きかけるものではなくて、単に自然をそのまま受け容れれば好い、この受容の能力が感性なのである。この人間はであるから歴史――それは人間的実践の足跡と軌道である――を有たない。之は存在(自然)が、自己同一的な静止者であったことに相応するものである。でこのような自然(物質)は、それに如何なる運動と変化とを与えたにせよ、精神乃至意識にまで媒介されることが出来ない。だから、丁度十七世紀から十九世紀にかけての唯物論がそうであったと同じく、フォイエルバハの唯物論(吾々は之を自然主義的唯物論と呼ぼう)も亦、機械論的唯物論の範疇を出ない。ただ後者が前者と異る点は、後者が物質の概念を同一哲学風の広汎な範疇に於て理解したという所に横たわるだけである。
 
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