ッに於てどう意識していようと、自然科学の原理的な研究は、概括的に云えば凡て直接にか或いは間接にか、社会の技術的従って又技術学的必要と目的とによって、客観的に要求されたものであって、自然科学一般の発達の歴史は、実は社会に於ける生産技術の要求に従って、技術学的な目的に沿って、それから又技術学的な与件に立脚して、初めて展開して来たことを示している。ただその要求なり目的なり与件なりが、自然科学の研究や発見や創意にまで機械的に露骨には反映しないから、自然科学者自身さえが之を主観的には自覚し得ない場合の方が多い、というまでなのである。だから自然科学は技術学へ単に偶然に付けたしのように応用されるのではなくて、初めから応用されるべき約束の下に応用されるに他ならない。
 生物学と雖も之と少しも異るものではない。生物学の発達は主として農業技術学上の必要と目的との下に、農業技術学の発展段階を与件として、初めて行われる。ダーウィン主義乃至進化論も、それがダーウィンによって実証的な根拠に立った科学的理論となるためには、この農業技術学上の発達に依存しなければならなかった。
 自然科学は一般に産業技術学を離れて理解されることを許さない。云うまでもなく両者のこの関係は決して簡単でなく又単純ではないのだが、この関係への注目を一貫することによって初めて、自然科学の生命が、その本質と運動とが、実質的に理解出来る。自然科学の発達が、個々の天才人の天才的能力や、又は人間一般の理性や悟性やそう云った精神の発現に負う処は大きいに相違ないが、そういう精神力の発現自身が、なぜそういう内容となって又そういう時に、行われねばならなかったかが、技術学上の根拠に立つのである。そしてここにこそ自然科学の具体的内容があるのである。もしそうでなくて、単に精神的な表現だと云うならば、自然科学はなぜ自然科学となって芸術や何かにならなかったかが説明出来ないだろう。社会主義も日本主義も同じく頭脳の産物には相違なかろう。だが頭脳の所産だということは何等社会主義の説明にもならず日本主義の説明にもならぬ。社会主義が日本主義と異る所以《ゆえん》、即ち社会主義が一つの思想[#「思想」に傍点]である所以は、それが頭脳の所産であることにあるのではなくて、正に社会人の生活の物質的根拠に照応している処にあるのである。
 処で技術学は云うまでもなく社会に於
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