い。自然科学が、自然科学自身という世俗的な埒を守っている限り、当時はまだ自然科学者を社会的に反省させるだけの内部的な矛盾も、困難もなかったからで、つまりまだ、自然科学内部に於ては、科学論への真剣な省察や、ましてマルクス主義的、唯物論的、な科学論への真面目な注目を強いる条件はなかったからだ。科学の哲学的基礎というようなことを聞いても、まず一応の文化的儀礼として聞きおくという程度のものであり、あまり重ねて耳にすると専門化らしい軽い反感を催したりする程度にすぎぬのだった。まして当時進歩的イデオローグが取り上げた科学の階級性などという問題は、頭から、科学を誣いるものでしかないと考えられた。科学の大衆性と云っても、科学の啓蒙活動と聞いても、丁度日本の議会に婦選案を上提するようなものであったものだ。
処が最近、自然科学者側からする科学論にたいする興味は、前に比較すると異常に高まって来たと云うことが出来るようだ。少なくとも科学論は自然科学界に於ける或る種の市民権を得たように見える。この現象は色々の処に見て取れる。少なくとも夫は科学的ジャーナリズム[#「科学的ジャーナリズム」に傍点]の発達に見られる
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