、こうした教学主義的教育観がこの問題について暴露する本質的な無能力は、教学なるものそのものが時代的に救い難い代物となって来たことを告げるに余りあるではないだろうか。教学が科学ではなくして、教えと学びとをそれ自身内容とするという教育的自己感応の本性のものであるだけに、教育に於ける教学のイデーの行きづまりは、皮肉と云う他ない。
かくて教学的精神は発達史的認識の要点を故意に逸するものであり、且つ実証的技術的認識を見事に回避するものだ。そして相手の関心を専ら道徳という框に追い込むものなのだ。もし歴史的認識と実証的精神という或る意味での合理的精神の二面が科学的精神の二つの契機であるなら、教学的精神は科学的精神の、今日の文化時局に於ける正反対物であることが、結論されていいだろう。
教学的精神の反技術的精神・道徳倫理主義的本性・徳育的本質の弱点は、さきに触れた。その発達史的認識の欠如そのものを、却って教学の歴史観的本性だとして誇称せしめるものは、他ならぬ教学に於ける文献学主義だったのである。教え学ぶのは専ら各種の経典[#「経典」に傍点]についてであり、経典によってである。この際経典は科学的研究資料としての文献ではなくて、信仰の・学を修するための・教えを垂れるための・権威であるということは、一切の教学家が口を揃えて唱える処だ。即ち経典とは文献学のものではなくて文献学主義のものなのである。経典が文献学的資料の価値を越えて、教学の権威ある拠典となる時、それが教学に於ける文献学主義というものなのだ。そして文献学主義となれば、夫は解釈の哲学であって現実処理の哲学ではないと云う事を、私は之まで繰り返し繰り返し述べて来たが、そうすれば、文献学主義としてのこの教学が反技術的精神のものであることは、亦必然である。教学に於ては、道徳的・徳育的・な本質が最も大きな支配的契機だが、之を抜きにして、その文献学的伝習主義だけから云っても、之は到底現実の社会的なまして自然的な事物を真面目に処理し得るものではあり得ない。――ただそれを社会的に支えるものは、社会支配者層の観念上の必要だけであって、教学という観念が「国家」という観念を離れては一刻も生存出来ないらしいことは、意味深長なことだ。以て又、この精神の文化時局的な用途の無理からぬ点を理解し得よう。
教学的精神が最も旺盛なのは、勿論のこと現代の日本に於てである。日本を今日あらしめたものが併し必ずしもこの教学的精神でなかったということは、教学の先輩である支那の後れた事情を見れば明らかだ。して見るとこの精神は決して日本の発達にとって根本的な効能のあったものでないことが判る。而も今日、夫が何か大いに役に立ちそうに益々祭り上げられつつあるとすれば、恐らく刹那的で末梢的な効能をねらってのことであると断ぜざるを得ない。だから今日の教学的精神が如何にクルしいものであるかを思わねばならぬ。――だがかつて教学的精神の栄えた土地は概して東洋であり、古代印度と古代以来近世までに至る支那大陸である。之は何かの意味に於けるアジア的イデオロギーであろう。で今日、東洋的精神乃至日本的精神の伝統に於ける反科学的精神に基く残滓は、終局に於てこの教学の精神にまで追いつめられて行くだろう。いや今日の支配者的文化の指導者達は、みずからそこまで引き上げ、そしてそこに立て籠もるようになるに相違ない。
教学は時に宗教の形をとり、時に宗教から区別された道徳や形而上学の形をとる。宗教が神学的な形をとる時、必ず教学というカテゴリーを採用するのである。そして教学としてもっとも著しい嶄然たる特色を有つものは、東洋乃至日本の教学であったのである。そこにキリスト教神学による教学と、東洋的教学[#「東洋的教学」に傍点]との間の、多少の相違を吾々は見出すことが出来るだろう。東洋的教学は必ずしも反宗運動や無神論運動の網にそのまま引っかかるとは思われない。東洋的教学(キリスト教教学は勿論のこと)は云うまでもなく宗教的な本質のものであり、従って反宗・無神論の批判対象となるべき本質のものであるが、その現象形態は、よく云われるように必ずしも宗教ではなくて、儒教となったり、又単なる民族的習癖としてさえも現われる。仏教が無神論であるなどという説は今採るに足りないが、併し日本仏教の大きな文化的役割は単なる信仰としてではなくて、正に教学として遂行されたものであったことを忘れてはならぬ。印度哲学や仏教に於て知識と信仰とが一つであるとか云われるのも、単に教義の上の問題ではなくて、夫の歴史的変遷に於ける教学としての社会的文化的役割の問題であったことを思わねばならぬ。儒教が哲学であると同時に、実際的道徳教であるという類も、その東洋教学的な特徴によるのである。
由来宗教批判は唯物論の一貫した課題である。だが私は現下の唯物論による宗教批判という課題をば、教学の批判にまで拡大し又変容することが、適切ではないかと思う。現代の反進歩的な文化動向は今に必ずここに陥ち込むと信じられるからだ。そしてここにこそ、科学的精神[#「科学的精神」に傍点]という問題の、生きた文化時局的な意義の中枢があるのだ。蓋し科学的精神[#「科学的精神」に傍点]とは、現下に於ける唯物論の文化時局的形態のことだ。
[#地付き](一九三七・八)
底本:「戸坂潤全集 第一巻」勁草書房
1966(昭和41)年5月25日第1刷発行
1967(昭和42)年5月15日第3刷発行
入力:矢野正人
校正:松永正敏
2003年9月11日作成
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