、科学的精神の支配下に立つものではない、というような意見である。日本精神を審美的表現性を有つと考えることは併し、要するに之を以て知性的合理的表現に相応しからぬものとすることであるから、知識よりも人格、頭よりも肚、知育よりも徳育、云々という一切の実用主義的非合理主義と同じ目標を有つものである。だがいずれにしても、所謂日本精神と呼ばれるものを、往々にして科学的精神の反対物であるかのように考えるのが、日本主義者の通常であるようだ。今日の日本の民衆は「科学的精神」を旱天の慈雨のように欲しているのだが、日本主義者によると、それは民衆の伝統上、許すことの出来ないもので、日本の民衆は科学的精神を欲するものでないと垂訓するのであるから有難い迷惑である。
 そこで科学的精神に対立するものとして、日本では何か或る日本特有な日本的なものを有つだろうという結論になる。科学的精神に反対する分子の少なくないことは、別に日本には限らぬ。併し日本には日本特有な反対の仕方[#「仕方」に傍点]があり、又特異な意味に於て反対する特別な必要[#「特別な必要」に傍点]があるらしい、ということが判る。そういうものがあるものだから
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