たる特色を有つものは、東洋乃至日本の教学であったのである。そこにキリスト教神学による教学と、東洋的教学[#「東洋的教学」に傍点]との間の、多少の相違を吾々は見出すことが出来るだろう。東洋的教学は必ずしも反宗運動や無神論運動の網にそのまま引っかかるとは思われない。東洋的教学(キリスト教教学は勿論のこと)は云うまでもなく宗教的な本質のものであり、従って反宗・無神論の批判対象となるべき本質のものであるが、その現象形態は、よく云われるように必ずしも宗教ではなくて、儒教となったり、又単なる民族的習癖としてさえも現われる。仏教が無神論であるなどという説は今採るに足りないが、併し日本仏教の大きな文化的役割は単なる信仰としてではなくて、正に教学として遂行されたものであったことを忘れてはならぬ。印度哲学や仏教に於て知識と信仰とが一つであるとか云われるのも、単に教義の上の問題ではなくて、夫の歴史的変遷に於ける教学としての社会的文化的役割の問題であったことを思わねばならぬ。儒教が哲学であると同時に、実際的道徳教であるという類も、その東洋教学的な特徴によるのである。
 由来宗教批判は唯物論の一貫した課題である
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