ばならぬ。科学的精神が如何に民衆大衆の文化全般の精神であるかが理解される。
科学に於ける科学的精神の教育について、一貫した主張を旧くから持っているのは、小倉金之助博士の如き人である。氏は『数学教育の根本問題』を、数学専門家のための数学教育には求めずに、数学に於ける、又数学による、科学的精神の教育(実証的精神と歴史的認識の精神とされる)に求めた。『数学教育の根本問題』を初めとして、『数学教育史』、『数学史研究』、又最近の評論集である『科学的精神と数学教育』が、首尾一貫してこのことを主張している。科学的精神に対して専門家的矮小化に陥る危険を、警告することに終始しているとさえ云ってよい。――之は数学に於ける科学的精神だが、自然科学・更に社会科学・哲学・文化理論・に於ける科学的精神についても、同じに考えないわけには行かぬ。この精神は民衆の常識と良識との問題なのだ。だから社会的常識と良識とを往々にして欠かないではない科学的番頭達には、却って理解出来ないものでさえある。そのことを特に記憶しておかなければなるまい。
さて、今日最も科学的精神を欠きがちであるのは、社会・文化・に関する学者と俗人とである。或いは、自然科学者も決して科学的精神に於て一人前であるとは保証出来ないのだから、もっと正確に云うと、科学的精神の欠乏が最も害悪を流しつつあるのは社会・文化・の世界に於てであると云った方がいいかも知れぬ。之が今日の文化の時局的状況なのだ。そこで、この方面に於ける科学的精神の強調と、それに対する反対物の克服とが、文学主義と文献学主義とに対する認識論的批判となる、と私は考えた。之は今日に於ける唯物論的な科学論の時局的な中心課題だと信じたからだ。
私は併し今、この観点をもう一歩進めて見たいと考える。文学主義・文献学主義・に対する批判を、もう一つ具体的な形に於ける或る現象にまで追跡して、認識論的な拠点を新しく築くことを試みたいと思う。科学的精神に対する教学的精神[#「教学的精神」に傍点]の問題が、夫だ。
思うに知ると知らぬに拘らず認識論的な一つの立場を意味する文学主義なるものは、最も一般的な包括的な錯誤の体系であろう。之は一切の文化領域について、又殆んど一切の社会の封建的・ブルジョア的・文化について、見出される共通の公式である。文士的文学に於ても、資本主義国の支配哲学に於ても、哲人的思想に於ても、資本制的支配者の道徳意識や世界観に於ても、洋の東西、時の古今を論ぜず、見出される一つの文化的態度なのだ。就中これは常識の形をとって発現することに自由を有っている。文芸がある意味に於て常識と密接しているだけに、この主義は文芸の世界に最も露骨に強力に現われやすい。文学主義と呼ぶ所以であるが、処が文献学主義の方はもっと限定された形態をもつのである。
文献学主義は文学主義のもっとアカデミックな形をとったものである。そこではとに角、歴史的認識と云うものの標榜を媒介としている。無論実際の歴史的認識ではなくても、各種の変態を遂げた限りの歴史主義を媒介としているのである。解釈学的精神や博言学的態度や文学的審美的評論がそれだ。だから之は、事物の歴史的な認識、乃至歴史理論に連関すべき事物の認識、に於てしか発動しない。例えば文学主義に於ては刹那的・印象的・放言というようなものとなる処を、文献学主義に於ては歴史的コジつけ[#「コジつけ」に傍点]というようなものとなる。万葉精神はギリシア精神である、などと云うのは前者であり、之に反して、日本はギリシアであるというような木村鷹太郎主義は後者である。牽強付会は、出鱈目が歴史的認識などをかりて学究的になったものに他ならないだろう。博言的・文献学的・「知識」がそこに介在して来る。だから之はより組織された文学主義であり、より根拠の明らかな錯誤の体系であり、より衒学的でもあり得る言論機構だ。
私は文献学主義という公式を用いて、現下の日本に於ける各種の日本主義的哲学や社会理論を最もよく分解出来ると信じる。だが云うまでもなく之は、日本主義だけの言論機構をなすものではなくて、今日の日本や外国の各種自由主義哲学の言論機構ともなっている。特にそれは解釈哲学や文化的形而上学と云うべき半ば世界的に流行しているブルジョア観念論の現代的基本形態に、特によくあて嵌まる。旧くキリスト教神学にも通用すれば近代観念論にも通用する。だからなおまだ、之を文化時局的に限定出来る余地を充分に残していると見るべきだろう。――そこで文献学主義の更に或る特殊な限定された形として、教学主義[#「教学主義」に傍点]を指摘しなければならぬと私は考える。
或る論者は科学的精神と日本精神とが相反するものだということを世間に納得させようとする。云わば日本精神は審美的な表現を宗とするから
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