思想に於ても、資本制的支配者の道徳意識や世界観に於ても、洋の東西、時の古今を論ぜず、見出される一つの文化的態度なのだ。就中これは常識の形をとって発現することに自由を有っている。文芸がある意味に於て常識と密接しているだけに、この主義は文芸の世界に最も露骨に強力に現われやすい。文学主義と呼ぶ所以であるが、処が文献学主義の方はもっと限定された形態をもつのである。
文献学主義は文学主義のもっとアカデミックな形をとったものである。そこではとに角、歴史的認識と云うものの標榜を媒介としている。無論実際の歴史的認識ではなくても、各種の変態を遂げた限りの歴史主義を媒介としているのである。解釈学的精神や博言学的態度や文学的審美的評論がそれだ。だから之は、事物の歴史的な認識、乃至歴史理論に連関すべき事物の認識、に於てしか発動しない。例えば文学主義に於ては刹那的・印象的・放言というようなものとなる処を、文献学主義に於ては歴史的コジつけ[#「コジつけ」に傍点]というようなものとなる。万葉精神はギリシア精神である、などと云うのは前者であり、之に反して、日本はギリシアであるというような木村鷹太郎主義は後者である。牽強付会は、出鱈目が歴史的認識などをかりて学究的になったものに他ならないだろう。博言的・文献学的・「知識」がそこに介在して来る。だから之はより組織された文学主義であり、より根拠の明らかな錯誤の体系であり、より衒学的でもあり得る言論機構だ。
私は文献学主義という公式を用いて、現下の日本に於ける各種の日本主義的哲学や社会理論を最もよく分解出来ると信じる。だが云うまでもなく之は、日本主義だけの言論機構をなすものではなくて、今日の日本や外国の各種自由主義哲学の言論機構ともなっている。特にそれは解釈哲学や文化的形而上学と云うべき半ば世界的に流行しているブルジョア観念論の現代的基本形態に、特によくあて嵌まる。旧くキリスト教神学にも通用すれば近代観念論にも通用する。だからなおまだ、之を文化時局的に限定出来る余地を充分に残していると見るべきだろう。――そこで文献学主義の更に或る特殊な限定された形として、教学主義[#「教学主義」に傍点]を指摘しなければならぬと私は考える。
或る論者は科学的精神と日本精神とが相反するものだということを世間に納得させようとする。云わば日本精神は審美的な表現を宗とするから
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