楽のもう一つの側面である或る意味での積極性の方を考察してかかることが必要だ。
 娯楽の人間社会生活に於ける積極性と考えられるものは、二つの要素からなっている。その一つは勤労生活の契機として要求される処の、娯楽を楽しむという行為一般のことだ。つまり何でもよい、娯楽という時間、娯楽という態度、それが社会に於ける人間生活にとって、可なり大きな教慰的な養生的な建設的な意義を持っているのである。民衆は慰安も休息も必要でないかも知れない、まして暇つぶしの仕方や退屈凌ぎの技術をやである。慰安や休息を必要とするのは、労働生活、勤労生活、そのものが社会機構に於て不健全だからである。娯楽は之に反して、決してそういう何かの欠乏の後からの埋め合わせや弁解ではない。生活の消極的な陰や否定的な側面などではない。生活の陽当りのよい露出面での出来事でもあり瞬間でもあるのだ。否、そうあるべきなのだ。又あり得る筈なのだ。娯楽そのものが労働生活の有機的な一環として社会的に公認掖導されねばならぬものであろう。
 娯楽はこうした社会生活に於ける健康と幸福との現実的な第一段階であって、ただの社会の隙間の穴埋めにあるのではない。勤労生活に於ける労作成就の怡びや生活満足感や生活の一般的享楽は、どれもまず娯楽というものを、平俗な併し確実な入口としている。民衆は娯楽を有たねばならぬ。だが娯楽は支配者の配慮によって外から与えられるものではない。支配者は高々慰安をしか与えることは出来ぬ。支配者は民衆の娯楽であるべきものをさえ、慰安の形に引き直してしか与えない。今日の娯楽はかくて、宗教的荘厳の有難さからスポーツの刺戟や性的蠱惑に至るまで、民衆の阿片とされて了うのである。
 娯楽の積極性のもう一つの要素は、前の単なる生活契機である娯楽行動一般とは異って、娯楽が夫々の文化形象をなすという点に存する、麻雀・球・碁・将棋・娯楽雑誌・諸演芸を初めとして、各々性質を異にするものを漠然と総称する処の所謂スポーツ(之は体操から一六勝負までも含み兼ねない)社交の催し(パーティー・サロン・其の他)など、夫々いずれも社会に於ける文化形象なのである。娯楽はこういう社会的制度の一つでもあることを記憶せねばならぬ。こうした文化形象を結べるということは、娯楽が単なる暇つぶしや慰安というような消極的な受動物ではない証拠で、文化を形づくることの出来る精神的内容は、常に社会的に健康な養生的で建設的な積極性を有つものなのだ。宗教など、それが文化を超越すると考えられる時は、同時にその阿片性が最も純粋になる時であることを思い出さねばならぬ。――娯楽は社会生活に於ける建築の一種で、エヤバウエン(Er−bauen)(教慰)し、ビルデンし(教育し教養を与える)、ウンテヤハルテンする(Unterhalten――下から支える)(楽します)ものなのだ。尤も之は言葉の洒落に過ぎないが、併しそこに多少象徴的なものがあろう。

 そこで問題は、芸術と娯楽との関係である。娯楽行為一般としての娯楽、又文化形象としての娯楽、と芸術との関係である。問題は芸術の民衆性・大衆性・に通じるのだ。――芸術の大衆性・民衆性・の一つの不可欠な要素は、つまり面白いということなのだが、併し芸術の面白さの意味は様々であるので、この言葉だけでは殆んど何物をも解決し得ないように見える。文学作品なら文学作品を、読み出すまでの面白さ或いは読み始めの面白さ、と、読み出してから後の面白さとでは、大変意味が違うのである。読書の欲望をかき立てるような作品でも、読み続けて見ると案外退屈であったり、最初は何か偶然な興味で読み始めたのが、途中で止めることが出来ない程惹きつけられたりすることがある。初めから魅力がありそれが終りまで裏切られず続くものも勿論ある。こういう夫々の場合の相違は、面白さというものの意味が読み方の進むに従って変って行くという事実を物語っているのである。之は作品鑑賞の時間の順序にばかり関係があるのではない。云わば芸術作品の表面と内面との関係についても云えることで、表面的・外面的・な面白さと内面的な面白さとの間にはおのずから意味の相違があるわけである。
 仮に芸術の有つ面白さという観念が、それを云う人の個人個人によって別であることを考えに入れなくても、同じ芸術作品の表面の面白さと内部的な面白さとは違っている。そして多くの場合、この内部的な面白さというものは、予め外面的な面白さから引き入れられたという順序の上に立って初めて面白くもなるものなのだ。つまりこの内部的な面白さ、それだけ芸術としては本格的な面白さは、多くの場合、いきなり触れては魅惑を触発しないに拘らず、外面の面白さにつられて内面へ案内されて行くという順序を踏むと、初めてその面白さが素直に判る、という場合が多い。絵画にしても、色彩や形の或る通俗的な美しさ[#「美しさ」に傍点]が、芸術的にも意味を有つのである。
 で、芸術の面白さというものが芸術の大衆性・民衆性の不可欠な要素だと考えられる時の、その面白さとは、実は芸術がまず予め外面的な人間的な面白さを備えているということであり、そしてこの面白さがやがて作品の本当の面白さへの案内人となるという、そういう面白さの駅伝組織が与えられているということでなくてはならぬ。まずごく普通の意味で面白いということから惹きつけられて、いつの間にかその作品が有つ特有の芸術的関心へ導かれるという場合、夫が「面白い」作品であり、そして大衆性を有った作品だと云われるのだ。
 芸術の外面的な面白さと云うのは、ごく普通の面白さということだが、之はごく常識的に誰にでも共通の、平俗で通俗な、安易な甘味さを指すのである。最も抵抗の少ない這入り易い、云わば陥井のような魅力が、この面白さでなくてはならぬ。菓子の甘さや、形や姿や色の綺麗[#「綺麗」は底本では「奇麗」となっている]さ、のようなごく低級と云っていいような面白さが、今は大切なのである。こういう面白さは事実極めて民衆的なもので又大衆的なものだが、芸術の民衆性乃至大衆性とは、芸術がこういう面白さの外覆を有っているということでなければならぬ。芸術的真実と云っても、それだけをいきなり鑑賞者におしつけることは、却って芸術的真実を傷つけるもので、つまり難解な芸術に終るのである。それは鑑賞者の甚だ限られたグループの一定の特異な教養に訴えるものか、そうでなければ作家仲間のお互いの間だけで楽屋的な価値評価を要求するような、エチュードやノートや実験室的試案でしかない。之はまだ社会に於ける芸術というものではなく、況して大衆的な芸術ではあり得ない。芸術の具象性や形象化ということも、こういう甘美なアンテナと離して理解してはなるまい。――大きな芸術は民衆的に平俗な面白味を以て、まず一般大衆を捉えるものだ。そして大衆は一旦捉えられたが最後、遂にいやでもその大きな芸術の芸術的な大きさと高さとへ、つれて行かれるものなのだ。そこで初めて芸術の面白さの最後の意味が体得も出来るわけだ。優れた芸術作品はそれ自身の内に、そうした云わば教育制度を有っている。
 芸術作品のこのごく平俗な外面的面白さ、外部的な魅惑、之は或る意味では案外思想的なもので、それはテーマのアップ・トゥ・デートであることなどの魅力としても現われているが、併し他の方面から考えると、勿論風俗的な要素だと云うことが出来る。芸術鑑賞者の大衆は、まずその風俗感から作品に誘惑され、そこから思想的な興味にまでつれて行かれる、物を考えさせられるのである。甘さの魅惑が思索への入口となるのである。甘味な感能と思索の鞭とは、本当に大衆的なそして大きな芸術に於ては、案外近いのだ。思想と風俗とはごく接近するわけだ。――処でこの外部的な甘味な魅惑こそは、他ならぬ娯楽と呼ばれているものに相当する要素なのである。
 するとこういうことになる。凡ての本格的な芸術は、娯楽から始まらねばならぬ、と。之が芸術の大衆性という要求が表に現わすことの内容の一つなのである。だから夫々の文化形象としての所謂娯楽(演芸其の他の如き)と芸術との間に、潔癖な限界を設けることは、勿論滑稽なこととなる。一体芝居やオペラは民衆の娯楽でないとしたら何であるか。にも拘らず之を芸術でないというものはいない。芸術と娯楽はそうまるで相反したものであってはならぬ。娯楽の行為こそ芸術鑑賞の第一歩でもあることを忘れてはならぬ。娯楽は民衆を教慰し、教養し建設せしめ考えさせるその最も普遍的で誤まらぬ手段なのである。であるが故に娯楽は、芸術の本質そのものの内にぞくする。娯楽は元来芸術性を有っているのだ、そして芸術も最後まで娯楽的特色と絶縁することは出来ない。芸術の大衆性をまともに考えれば、そうあらざるを得ない。勿論娯楽はそのままで芸術にはならぬ。だが芸術への案内人であり客引きでなければならぬというのだ。だが芸術それ自身が抑々、生活への案内人であり客引きではなかったか。
 以上は芸術に於て娯楽が演じる建設的な役割についてであったが、或る意味で之と全く平行して、生活に於ける娯楽の役割を導き出すことが出来る筈である。云わば娯楽とは、真実にそして幸福に且つ健康な生活をするための、最も大きな民衆的な閭門なのである。民衆の乗ったものなら駱駝でも何でも通れるのである。社会に於ける娯楽の通用と娯楽施設とを無視しては、大衆の要求する幸福を適切に語ることは出来ない。――資本主義社会に於ては、一方に於て如何に娯楽の施設が階級的に偏極されているかに気づかざるを得ないと共に、他方に於て娯楽というものの教慰的な必要が如何にケチに歪められた観念に捉われているかに注目しなければならぬ。娯楽の大衆的発達と社会に於ける普遍的通用とは、社会そのものの健康と建設性との徴しの一つだ。吾々は世界に於てその実例を有っている。
 最近民衆の自己省察にとって、屡々伝統の問題が取り上げられている。伝統の民衆による自己検討は益々進められて行かねばならぬ。だがそれと共に、民衆はみずから娯楽についても考察を進めて行く必要があるのだ。民衆は娯楽の社会的権利をもつ、否、娯楽の義務をさえ有つ。而も娯楽は民衆の自主的なものでない限り、娯楽というに不充分であろう。娯楽とは、世間の不用意な通念とは多少異って、民衆の自主的な民主的な、要求を意味しなければならなかった。いや、やがてそういう要求が大衆的に起こらねばならぬ。上からの文化統制――それは勿論娯楽の統制に対しても異常に熱心であることを忘れてはならぬ――と対比して、民衆は自分みずからの娯楽の機能について思を致さねばならぬだろう。娯楽欄・娯楽雑誌・娯楽の時間・其の他に於て今日与えられている所謂娯楽は、暇つぶしや慰安ではあっても、娯楽とは云うことが出来ない、という一つの根本関係を理解してかかる必要があろうと思う。
 娯楽について、その社会性と積極性という二つの特徴を今日強調したい所以である。
(一九三七・七)[#地から1字上げ]



底本:「戸坂潤全集 第四巻」勁草書房
   1966(昭和41)年7月20日第1刷発行
   1975(昭和50)年9月20日第7刷発行
入力:矢野正人
校正:小林繁雄
2001年8月23日公開
青空文庫作成ファイル:
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