、それに対する全くの弁解のために、他のもっと気の向く、従ってもっと平均的な一般的な這入り易くて責任の軽い何等かの労働を選択する、ということが、暇つぶしであり退屈凌ぎということである。勿論そういう安易労働に多くの社会的効用を期待することは出来ない。だから之を労働と呼ぶことに引け目はあるが、併し少なくとも一種の活動でないとしたら、暇をつぶし、退屈を凌駕するだけの、能動性さえあり得なかった筈だろう。
だがそれにも拘らず暇つぶしや退屈凌ぎは生活に対して消極的で弁解的なものであることを失わない。之は特殊な或る労働を、任意の安易労働という一般的労働を以て置き換えることを意味するが、特殊労働が当然持っている筈の労働の有用性が失われて、一般任意の労働に振り替えられるのだから、之は否定的で消極的なものであらざるを得ない。依然としてわずかでも労働の形をそなえているという生活の弁解のためのものでしかない。多くは自己弁解のためのものだ。だが精神衛生上、暇つぶしや退屈凌ぎが有っている価値をここで一々評価している暇はない。それは精神の個人的乃至内部的な衛生に関することではあっても、精神の社会的な臨床に直接したことではないからだ。
なる程暇つぶしや退屈凌ぎに、娯楽というものを利用するということはある。事実娯楽はこういう消極的な自己弁解の形式に、或る積極的な感興をさえ与えることが出来る。娯楽は社会的に成立した或る特殊な積極的内容を持っているからである。例えばスポーツとか勝負ごととかいう「既成制度」とも云うべき文化形象を有つものが娯楽だからである。だがそうだからと云って、例の二つのものを娯楽自身と混同してはならぬ。暇つぶしや退屈凌ぎは夫々の個人の私事に吸収されている現象で、それ自身では社会的な立体を形づくらないものだ。その意味に於ても、之は消極的だったのである。有閑層の産物であることが往々であるのも、有閑層の生活が社会的労働から縁遠く、社会に於ける積極的な立体性をもった文化形象の一切とから割合離れているからなのだ。娯楽を最も濫用しているものは事実有閑層であるが、娯楽を本当に要求し、従って本当に娯楽というものの価値を理解出来るものは一般勤労民衆でなければならぬ、ということになるのである。
暇つぶしや退屈凌ぎは、まだ何等娯楽にはならぬ。娯楽には生活感の促進を催す処の、あの文化一般の素の味である処の、積極的な熱情があり、文化一般の健康感を結果する処の、あの建築的で蓄積的な生産的能力が備わっている。たといその文化的な身上があまり高くないにしてもだ。単に無間地獄に落ちないだけのための、暇つぶしや退屈凌ぎと根本的に異る所以だ。
娯楽は又、休息や慰安とも密接な縁故があるだろう。だが休息と娯楽とをすぐ様結びつけて考えることは、実は休息を労働から無雑作に切り離して考えることであり、従って又娯楽を労働から引き離してしか理解しないことだ。こうした労働の観念は何を意味するか。奴隷制的労働でなければ、一般に奴隷的な労働をしか意味しないだろう。とに角労働に関する所有者的観念に立ち留ることを意味する。それではつまり、娯楽の所有者的な観念の或るものに止まることに他ならぬ。それから、娯楽を慰安と同じに考えることも亦、所有者的な観点から民衆を打ち眺める結果の一つだ。民衆勤労生活の不幸を想定することによって、且つこの想定を不変な公理とすることによって、初めて慰安という恵善的観念が社会的に生じて来るのであるが、之を以て他ならぬ娯楽だとすることは、結局民衆の不幸に対する弁解と補償として、娯楽を利用することになるのであって、民衆に対する社会的支配の道具の一つを娯楽に発見するというやり方に他ならぬ。之は民衆の娯楽であるようであって実は民衆の娯楽ではない。吾々は然るに、初めから娯楽の民主的な観念をこそ求めていたのだ。
慰安と休息とは、暇つぶしや退屈凌ぎに較べて、遙かに或る社会的な本質を持っている。後に見るように、もし娯楽が或る社会的な本質を有つものだとすれば、少なくともこの方が娯楽により近いことは想像していいだろう。それだけではなく、何と云っても慰安や休息は、その後の労働に生気を与える原因になるわけだから、それだけ養生的[#「養生的」に傍点]な意義を持つわけで、この点でも暇つぶしや退屈凌ぎのただの消極的で弁解的な本性とは異っているのだ。だがそれでもなお、慰安や休息はそれ自身に積極的な建設力があるのではない。あくまで労働に対立する慰安であり休息であることが、所謂慰安であり休息である所以だからである。――娯楽が慰安や休息として利用されることは勿論甚だ多い。だがそれ自身が娯楽なのではない。
さて最初に私は、娯楽を幸福に比較した。その時残されたものは、快楽と娯楽との関係であった。その点はどうなるか。――快楽は一つの原則である。快楽原理と呼ばれるものが夫だが、併し同時にあまりに絶対的原理でありすぎる。と云うのは、それが独立に徹底され得る原理であることによって、みずから自分を束縛せざるを得なくなるような、そうした原理の一つだと云うのである。快楽の原因は刺戟に置かれるのを普通とする。刺戟は反覆することによって逓減するのだから、一定質量の快感を保持するためには刺戟を限りなく増加しなければならぬ。だがそこには云うまでもなく限界がある。快感の飽和点がある。ここが快楽の危機であって、ここから快楽の浪費と快楽浪費そのものの不快な快楽とが生まれる。淫するというのは之を指すのだ。淫することは何も肉的欲情に限ったことではない、快楽一般の法則だ。この淫楽はおのずから自棄に通じ、やがてアンニュイに帰するものであるがこうなると、実はもはや快楽ではなくなって、前に述べた処の、あの退屈凌ぎや暇つぶしというカテゴリーに突入して来る。自棄的な暇つぶし、自暴的な退屈凌ぎ、ということになる。
快楽は熱情的な積極性を有っている。確かに之は生命の原則の一つだろう。だがその積極性の無条件な徹底は、遂に慰安と休息さえのないアンニュイに陥る。快楽の結局の非積極性と弁解的本性とがここに見出されるわけである。これは確かに生命の原則の一つだ。生理的・個人心理的・な生命の原則だ。だがこうしたものは無条件には必ずしも生活の原則ではあり得ない、社会生活[#「生活」に傍点]の原則の一つではあり能わぬ。快楽は個人的な生活原理なのである。快楽は幸福よりも機動力を持っている。幸福は単なる想定であり、或いは高々精神の均衡関係としての満足という結果か状態に他ならぬ。之に較べれば快楽は、それが一定の刺戟から直接に制約されている限り、ただの精神的想定や状態や結果ではなくて、正に心理的原因であり、心理的な原動力なのである。これだけの違いはあるが、それにも拘らず快楽は、個人的な本質の観念である点に於て、幸福と大して違ったものではない。
かくて快楽という観念は結局に於て自壊する積極性しか有たず、又社会的規定をそれ自身には持っていない、そういう観念なのだ。少なくとも物事を快楽というカテゴリーで把握する限り、その物事がそういう風に把握されざるを得ない。――娯楽は一種の快楽であると云ってもいい、ただあくまで個人的でなく理解された快楽、あくまで養生的な積極性に於て理解された快楽、そういう異例な快楽にしか過ぎない。だから娯楽を快楽に還元することが誤りであるばかりでなく、之を快楽に包摂させることも亦誤りだ。
快楽の一種に逸楽とでも云うべきものがある。之とても娯楽と一つではない。逸楽は或る逃避的な快楽を意味する。逃避する世界が深山幽谷であろうと市井の真只中であろうと、要するに社会的関心から個人的関心の内部へ逃避することだ。天下の逸民とは、自分の方も社会に対して何の要求も持ち出さぬ代りに、社会の方でも自分をソットしておいて欲しい、とする処の人間のことで、要するに或る特権を黙許された人間のことだ。民衆のことではないのである。娯楽は勿論難行道であり得る筈がないから、逸楽とどこか似た点もあるのであるが、併し娯楽の易行道は決して社会の建設的コースから脱線したものであってはならぬ。処でこのコースから逸脱する快楽こそ、所謂逸楽だったわけだ。
では娯楽そのものは何か。大体之を二つの特徴から整理して行くことが出来ると思う。第一は或る社会性であり、第二は或る積極性と云っていい。娯楽の有つ社会性の特色は、それが多くの場合、個人の単独な享受ではなくて必ず相手又は同志があるということに現われる。囲碁・将棋・などの手腕に基く勝負、競馬其の他のような知識と予見とに基く勝負、又は完全な偶然を建前とする勝負(賭博)、単なる競技(撞球其の他の類)、運動による競技(野球・水上・トラック・フィールド・などの競技的なスポーツ)などは勿論であるが、併しそれより大事なのは、例えば演劇・映画・其の他の演芸・スポーツ・等々の鑑賞が、事実に於て決して単独の観客によってはなされないということであり、多数の観客大衆を俟って初めて興行的に可能であるばかりでなく、之を俟ってその鑑賞そのものが初めて娯楽としての好さを生じて来るということである(之が商売乃至職業である場合を勿論除いて考えねばならぬが)。こうしたものは単なる普通の意味に於ける芸術的な鑑賞ではない、同時に一つの社交行為であることを忘れてはならぬ。折角芝居を見に行って、観客が寥々としていること程、ガッカリすることはあるまい。劇場が大衆的なものであればある程、立派で華かなものであることを要求される理由も亦、この社交性にあるのだ。
[#底本では1字下げしていない]娯楽的な意味の勝っている芸術は、寧ろこういう一種の社交感をその芸術内容の一つとしているだろう。だが芸術のことは後にして、会食やティーパーティーやダンスパーティーは、明らかに社交的娯楽の意味を有っている。勿論全く個人的にも行なわれ得る娯楽もないではない。独りで講談本を読むのも、独りで流れに糸を垂れるのも、或いは体育的な意味に於ける個人スポーツ(勝負事や社交としてのスポーツではなく)も、強いて云えば娯楽に数えていい場合が多いかも知れない。だが体育さえもそれが本当に社会化されて日常生活に入り込む時は、マスゲームのようなものにならざるを得ない。そしてこういう風に社会化されて日常生活に浸潤する場合、それは同時に娯楽的な意味を得て来るのである。同様なことは娯楽としての音楽についてもその通りに云えるし、登山・ハイキング・旅行・から始めて酒席さえも亦、或る限度の相手を必要とする。それが娯楽のカテゴリーにぞくする限りはである。
今雑然と並べて見たように、娯楽は殆んど一切の生活領域の内に根を持っているのである。単なる娯楽としての娯楽というものは、独立の文化領域としては存在しないかも知れない。一切の文化領域が夫々の限度に於て、或る程度まで娯楽の範疇に這入ることが出来るのである。どういう限度かと云うと、結局或る意味での大衆性乃至民衆性を有つ場合であると見ていいようだ。と云うのは、娯楽は労働に対立する意味での休息や慰安、暇つぶしや退屈凌ぎとは異っていたが、併し同時に、勿論単なる労働でもないので、最も入り易い、最も安易[#「安易」に傍点]な最も甘美[#「甘美」に傍点]な、そして最も魅力と模倣性とを有った(大抵は直接大して生産力とはならぬものではあるが)、労働であるわけだが、そのことから、娯楽が通俗性[#「通俗性」に傍点]を不可欠な要素としていることが判る。ディレッタンティズムなどと正反対な所以だが、さてその通俗性・平俗性・というものが、娯楽の大衆性乃至民衆性と一応さっき云った処のものに、他ならなかったのである。
安易・甘美・平俗・な本質を有つことによって、社交的形態に於ける享受を容易にされるようなものが、娯楽であり、娯楽の社会性と考えられるもの一切はここから出発して考察されねばならぬのである。例えば民衆の日常的結合の組織には、いつもこの娯楽の社会性・通俗的社交性・が活用される。娯楽は大衆組織の拠り処の一つだろう。ただそうであるためにも、娯
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