であって、民衆に対する社会的支配の道具の一つを娯楽に発見するというやり方に他ならぬ。之は民衆の娯楽であるようであって実は民衆の娯楽ではない。吾々は然るに、初めから娯楽の民主的な観念をこそ求めていたのだ。
慰安と休息とは、暇つぶしや退屈凌ぎに較べて、遙かに或る社会的な本質を持っている。後に見るように、もし娯楽が或る社会的な本質を有つものだとすれば、少なくともこの方が娯楽により近いことは想像していいだろう。それだけではなく、何と云っても慰安や休息は、その後の労働に生気を与える原因になるわけだから、それだけ養生的[#「養生的」に傍点]な意義を持つわけで、この点でも暇つぶしや退屈凌ぎのただの消極的で弁解的な本性とは異っているのだ。だがそれでもなお、慰安や休息はそれ自身に積極的な建設力があるのではない。あくまで労働に対立する慰安であり休息であることが、所謂慰安であり休息である所以だからである。――娯楽が慰安や休息として利用されることは勿論甚だ多い。だがそれ自身が娯楽なのではない。
さて最初に私は、娯楽を幸福に比較した。その時残されたものは、快楽と娯楽との関係であった。その点はどうなるか。―
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