無理に好意的に解釈するとすれば、まずこの辺に落ちつく他はない。と云うのは、科学に於ける普通教育は、科学の専門教育の縮小再生産のようなものではなくて、正に教養乃至素養としての科学教育だ、ということが注目されねばならぬ、と云いたいのであると私は好意的に解釈する。
教養乃至素養としての科学の教育と、専門技術としての科学の教育とが、夫々独自の役割を持った処の、上下関係とは云い切れない処の、区別に置かれているというわけだが、処が、一体こう一旦区別された教養乃至素養としての科学の教育とは何か、ということになると、又色々のわな[#「わな」に傍点]が用意されているのだ。教養ということについては問題があまり沢山あるから後まわしにして、素養としての科学の教育が、専門学術としての科学の教育と別であるというと、それでは科学の基本的な知識とでもいうようなものをそううまく教え込むことが素養としての科学の教育だろう、ということにもなりそうだ。そうなると、要するに科学について最も要領よく生徒を教える処の教授法上の優秀さに問題は帰着しそうである。例えば或る程度の専門的な記憶力と推理力と、その知識の教授法とを、掛け合わせた数値の一等高い人が、素養的科学教育の最も優れた先生になるというわけだ。自然科学の先生が専門の学識と人格者であることとを要求される、というような事情を少し好意的に解釈すれば、こんな処かも知れない。
だがこういうようなものは科学教育に於ける師範教育的迷信なのである。素養教育乃至普通教育は、大体教科書を使うことが出来るものだが、処が実は教科書というものほど条件のムツかしいものはないのである。優秀な教科書を書ける人は、実は一流の専門科学者以外にはない筈だ。科学は教科書から出発するのではなくて、教科書が科学的研究の一つの要約でなくてはならぬ筈だからだ。教科書は師範教育的には決して本当の編纂を許さないもので、之は専門の大家の老練な作品でなければならぬ。処でそういう教科書は決して実際に多くはない。大抵の教科書は教科書的マンネリズムの惰性的所産でしかない。そこから、教科書は一般に学術的に無価値なものだというような俗見も発生する。――之は学術研究と学術教育とが別々にバラバラに考えられていることに他ならぬ。而も之は却って、学術の専門教育と普通教育とをダラしなく混合させることから来たのであり、教養乃至
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