科学を考えておくとする)が事実上小学校中学校高等学校其の他の学校で初歩的で初等的な科学を教えることであり、之に反して専門の大学で教授するのが事実上高級な科学的知識であるとしても、つまり前の場合は科学の初等[#「初等」に傍点]教育(?)であり、後の場合が科学の高等[#「高等」に傍点]教育であるとしても、この初等教育はこの高等教育に対比して独自の価値を持っている。
小学校の児童には小学校児童らしい初等教育が必要なので、その意味では勿論初等教育はそれ自身に独自の価値があるのであり、もしそうでなければ大学の先生は小学校の先生よりも教育家として偉いというような妙な結論になるわけだが、今云うのはそのことではないのだ。科学[#「科学」に傍点]教育自身に於て、つまり科学自身の問題として見て、要するに生徒や学生の年齢其の他の問題としてではなくて云わば科学そのものの利害関係から云って、科学の初等教育(?)は科学の高等教育(?)に較べて独自の価値があると云うのだ。
一見、普通教育は専門教育に較べてそれ自身の価値を持つものだ、という教育学上の常識のようなものに帰着するように見えるかも知れないが、そして普通教育はこの常識から云っても決して単に初等教育に限るのではなくて、文部省式に云うと、中等普通教育、高等普通教育、というようなものを含むのだが、併し今云うのはそれだけではない。事実中学でやる科学は高等学校の初歩的なものであり、高等学校のは大学でやる科学の予科的なものだという関係があるとすれば、所謂普通教育としての科学教育は、専門教育としての科学教育の、単に初歩的なものに過ぎないということにならざるを得ない。之は多少とも現実の科学教育の事情だと思う。
普通教育としての科学教育と専門教育としての科学教育とが、言葉や表筆の上では勿論区別され得るような建前になっているとしても、その区別の本当の精神と、その区別の本質的な意義とは、必ずしも充分に注目されてはいないのではないかと思う。寧ろ両者はやや無造作に結びつけられ過ぎているようだ。専門的な学術の縮小版や省略版を授けることが、学術の普通教育だというような感がないとは云えない。この弊はすでに教育の玄人や素人にも拙劣な形で意識されているので、つめ込み主義がいかんとか、画一主義がいかんとか云う場合にここと無関係ではないし、知育偏重がいかんという場合、之を
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