応の用意を必要とするのである。社会は実証、検証、に適するようなカテゴリーの組織が必要だ。それは従って、産業技術、生産技術、と連帯関係に置かれているカテゴリーでなくてはならぬ。形而上学的な又解釈学的な、文献学主義的、文学主義的、教学的、等々のカテゴリーでは、社会の一物をも、現実には処理出来ないものである。或る意味に於ける物質的処理(世界のただのあれ之の説明ではない)が出来ないのでは、人類の生活のために存する論理ではない。処でこうしたカテゴリーは云わば技術的カテゴリーだ。そしてこの論理、この合理的精神、が取りも直さず技術的精神なのだ。思想、文化、に於ける技術的精神の絶対的な要請は、つまり思想、文化というイデオロギーが社会の生産機構に基く上部構造としてしか正当に把握出来ないという根本認識の、論理学的な認識論的な発展の他のものではない。科学的精神について、この根本的な側面を説明しようとすれば、それが取りも直さず、技術的精神によって、文化と思想とは初めて産業と物質的社会的生産とに結び合わされる。社会に於ける産業と全く独立した文化や思想ほど、客観的に見てみじめなものはない。それが惨めに見えないものは、世界の歴史を知らぬ者であり、思想の本当の圧力というものを経験したことのない者だ。――近代思想が、みずから認めると否とに拘らず、如何に圧倒的に近代産業によって規定されているかは、すでに述べた。産業は産業、思想は思想、などと云う者は、近代の思想家であることが出来ない。
 で私は、もし科学的精神とは何かを一口で説明せよと云われるならば、夫は技術的精神であると答える。社会に於ける物質的生産技術への媒介によって、そのカテゴリーを整備し、その推論と検証とを怠らぬものが、文化を一貫する、そして近代文化を特色づける、動かすべからざる精神であると、私は答える。
 最後に併し、技術的精神というその技術とは何か、という疑問が残る。私が技術と呼ぶのは、技能や手法や又芸術や術のことではなくて、「生産技術」のことだ。勿論これ以外のものを技術という通俗語が意味してはならぬと云うのではない。だがプロパーな意味に於ける技術が生産技術を指すのだという常識を忘れると、始末におえない混乱が生じて来る。この点については私の旧著『技術の哲学』で触れてたことがあるから省く。
 生産技術とはでは何か、に就いても、私は或る見解を固
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