文化主義的形而上学の文章に著しい)、第二は文献学主義(学術の名の下に文献訓詁の成果をすぐ様思想の典拠とする一切の博学又は牽強付会の方法――アカデミック・フールに著しい)、第三は教学主義(文化を倫理主義的に制限し教典を以て教化に資することを学問と心得るもの――東洋的僧侶主義や先生的文化観念に特有)である。
 この三つの反科学的、非科学的、精神が夫々の形態に於てではあるが、併し共通の特色とする処は、実証的精神への完全な無能力である。文献による実証は文献学主義や教学主義の得意とする処のようだが、この実証は決して実験的検証的なある実証的精神のものではない。実証的精神ではなくて解釈的精神なのだ。文化的形而上学が、実証的な現実感に薄いことは云うまでもない。之は現実の秩序と天上の可能界の秩序とを混同し、之は後者を以て前者の代理が出来ると考える。解釈の世界を以て現実の実在界の代りにしようとする点で、前の二つと同じ道行きなのだ。
 実証的精神が無能力であるから、正当な歴史的精神は不可能となる。却って倒錯した歴史観を産むものが、文献学主義であり教学主義なのだ。国粋的、封建的、日本主義の社会理論の多くは、之だ。こうしたものが合理的精神を欠いているということは、全くこの実証的精神の欠如、従って又本当の歴史的認識の無能から来る不可避な結果に他ならない。
 さて科学的精神に於けるこの生命物質に相当する実証的精神こそ、技術的精神と呼ばれるべきものである。実証的精神は、実験検証の精神だ。だがここでも吾々は之をラボラトリー的規模に於て理解するに止まってはならぬ。之を社会的生産機構のスケールに於て理解しなければならぬ。すると実験は産業と社会的に一つづきのものであることに気がつく。之は人間的社会実践の原型なのだ(社会人の政治的活動としての実践も亦勿論この系列にぞくする)。之はだから産業の精神だ。だから之は技術的精神になるわけなのである。
 真実な理論的思考は、社会的な現実に於て実践、検証、され得ねばならぬ。そうした意味での実験によって保証されなければ、リアリスティックな真実ではない。現実性がない。そういう現実性があって初めて、その真実は実践的な価値があるということになる。之は実証的精神――予見するために見る――のモットーにぞくする。だが、こういう思考を秩序立てるための用具としての論理的諸範疇は、又それ相
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