も物質を現実に造るということではないか、と考えたのである。
検証のための実験などは寧ろ一種教育的な意義さえ勝っていて、単純な意味での創造的な実験とは云えないようだ。科学とは、それでは、実は物を造るのを窮極目標とするのではなかったのか。
キュリの女婿ジョリオ夫妻が人工放射能の発見に成功したのも暗示的だ。こうやって新しい方法で元素が人工的に転換=即ち製造されて行くのだろう。そう思いながら、バルザックの『絶対の探究』を読んで見ると、わがバルタザル氏は、要するに炭素から金剛石を製造出来れば、絶対はつかまえたことになると信じている。化学は絶対「真理」を目標とするよりも寧ろ金剛石や金の製造生産を目標とする。そのための絶対探究だ。私は錬金術の新しい意味を発見したような気持ちである。
こういうわけで、この頃私は、科学の目標とは何か、ということを問題にし始めた。科学が他のものの手段になるという意味では決してないが、色々の公認された手段を用いて科学が到達して之で一まず解決、と思える頂点は何か、と考える。それはやはりどうも、問題になっている一定の物を造ることのようだ。
バルタザルは実験室を留守にしている間に金剛石が出来て了ったので、金剛石の成立のプロセスが判らなくて、遂に絶対を征服出来ずに没落するのだが、出来るプロセスが判れば、それが本当に製造出来たということである。細胞学者は、先回りして色々の疑似細胞を人工的に造っては、本物と似ていないかと比較している。之は云わば、有機的錬金術でもあろう。
もしそうなら、科学の目標を真理の認識だとする「科学論」は多少の修正を必要とする、という私の独断だ。
二 科学と生産
科学を一種の錬金術のように考えることは、最近の自然科学、特に物理学と化学とが極度に交錯した分野に於ては、常識にぞくするとも云えよう。元素の人工転換という問題、その理論、その実験はそういう意味で、自然科学発達に於ける甚だ特徴的な現段階であるようだ。
私が、科学は物を造ること、物的生産を目的とする、という一つの独断を導き出したのは、勿論自然科学のことを心に置いていたからである。併しこれは単に自然科学だけにあてはまるのではないように思う。例えば教育学である。之は一個の応用哲学や実用哲学のようにも考えられているが、それはとに角として、教育とは人間を造ることでなければなら
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