号を用いて精神上之を写し、感性的な直観がただ経験的に知る処のものをば正確な計算と証明法とによって符号を用いて導き出すものなのであるから」(Hauptschriften Leibnizeus, I. S. 76)。ライプニツのこの理念が数学的に発展される時どういう形を取るべきであるかはこの場合まだ明らかではないが、少くとも茲に代数的或いは量的という意味が座標的ということであるのは疑う余地もない。それ故ライプニツがこの解析を以てデカルトの幾何学に代えることを要求した処から見ても彼の位置解析なるものと吾々の所謂位置解析(前を見よ)とは全く別のものでなければならぬ。次に又彼が質的と呼ぶ所以は私が向に定義したように計量を含まないということとは全く別であることもその「正確な計算」という言葉が充分に説明している。それは計量を含んでいる。量的幾何学でなければならない。デカルト幾何学に対して質的と呼ばれるのはデカルトに於ては尽すことの出来なかった幾何学の哲学的意味を明らかにしようと欲したからに過ぎぬであろう。ライプニツのこの理念を発展させたものと認められているグラースマンの Ausdehnungslehre に於ては、その広延量乃至は要素量が位置と量値を持つのである(Grassmann, Geometrische Analyse.)。即ちこの場合の要素は質ではなくして明らかに量である。Ausdehnungslehre が縦え座標というような偶然なもの(〔Willku:rliches〕)を許さないにしてもなおそれは「解析の形式」を具えていなければならない(Grassmann, Ausdehnungslehre von 1844, S. 397)。更に又グラースマンの要素量がクラインの云うように(Elementarmathematik v. h. S−P. aus S. 339)類同幾何学の対象に外ならないとすれば、類同幾何学が質的であるかそれとも量的であるかを見てライプニツの位置解析の蔽われた性質を検出することが出来ると思う。処が類同幾何学に於ては距離、角、円と楕円との区別、等の概念はない。即ち合同の公理は成立しないようにも見える。従ってそれは一応質的と考えられそうである。併し例えば射影幾何学に於ては無窮遠点なる概念が除外され得るのに反して茲では要素の有限と無限とは常に区別されなければ
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