義経済学と一応同様に、全く「科学的」なのである。なぜならブルジョア経済学にはブルジョア経済学でそれ特有の立派な方法があって、それによって、そういう結論を必然的に導かざるを得なかったからなのだ。
尤も、それでは自然科学にブルジョア自然科学とマルクス主義的自然科学の区別なるものがあるか、と問われるだろう。もし理想的[#「理想的」に傍点]な自然科学があるとすれば、夫は確かに唯一の自然科学でしかあり得ない。その階級対立などは科学的に、この純粋な[#「純粋な」に傍点]科学の立場から云って、無意味だろう。併しそれは社会科学に於ても少しも変ったことではない。経済学と雖も理想的に純粋なものは、ただ一つしかあってはならない筈だ。処が自然科学は決してそれ程理想的でもなければ純粋でもないのが事実であるし、この事実がどこまでもついて回るとすればこの事実も亦原理上の問題にぞくする。のみならず実は、純粋な[#「純粋な」に傍点]自然科学、と云うのは哲学的世界観などから完全に独立した意味での純粋な自然科学などというものは、決して自然科学の理想的[#「理想的」に傍点]な場合ではあり得ない。もし仮にそうしたものが自然科
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