、という結論になるのである。
 尤もどういう仕方に於て実践[#「実践」に傍点]の要素が認識[#「認識」に傍点]の過程に介入するかは、分析を必要とすることで、単に知識の理論的な行きづまり――夫は理論的矛盾となって現われるが――を実地や経験というものの責に転嫁して、理論的な解決を打ち切ることは、ファシスト的アクティヴィズムか、僧侶的な神秘主義のデマゴギーにぞくする。云うまでもなく理論はどこまでも理論であり、之に対して事実はどこまでも事実である。知識は知識であり、実践は実践なのだ。だがこの理論や知識のそれ自身の自律による一貫性が、実は経験的事実なり実践的な問題の解決なりの、線に沿うてしか起こり得ないということ、或いは起こらなくてはならぬということ、夫が今大切なのだ。実践は理論に向って、思い出したように時々干渉するのではない。例えば物理学の理論は既存の実験を根拠として成立しているのであって、単なる理論があって夫が行きづまった時偶々実験に訴えるのではない。実践は常に認識の裏や表につき添っている。如何なる認識もその意味に於て実践の理論的な所産[#「理論的な所産」に傍点]に他ならない。

 で、それ
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