見解をうらづけるに充分でない。
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処が一方に於て、ロックのこの経験論は、やがて経験なるものを単なる感覚乃至知覚に還元することによって、バークリの知覚唯存主義となり、露骨で戯画的な主観的観念論にまで「純化」されたが、やがて又之を社会的な観点に移すことによって、D・ヒュームのコンベンション主義となり、事物の客観的法則に対する懐疑論に到達したのである。他方に於て、デカルト・ライプニツの合理主義は、ドイツに於ける啓蒙哲学の組織となり、C・ヴォルフの合理哲学=形而上学の形をとって集成されることになった*。このヴォルフ的形而上学を踏み越えるために、ヒュームに感動し、ロックの本来の問題――経験――を大規模に取り上げたものが、I・カントであることは、広く知られている**。尤もこの際J・N・テーテンスの心理学がカントの経験の分析にとって重大な先駆の役割を果しているのだが。――かくて吾々は、知識の問題を、特にカントに沿って取り上げる歴史的理由を持つのである。之は必ずしもカント主義者の真似をするためではない***。
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* 今日のドイツ哲学
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