必然性もあるのであったのに、ヘーゲルは全く非歴史的にも、之を天下り式の「体系」にまで化石化して了ったのであった。それ故ヘーゲル哲学、特にその自然哲学の前には、依然としてこの悟性的とけなされた自然科学が、その不器用な併し極めて有望な存在を続けていたばかりでなく、別に弁証法的段階にまで登ろうとする明らかな意識を持ち得たのではなかったにも拘らず、やがて急速にヘーゲルの「哲学」体系そのものを追い越して了ったのである。
 そこからヘーゲル哲学の歴史的な悲劇が起ったばかりでなく、哲学一般(実はブルジョア哲学だが)への絶望と嘲笑の声とさえが揚がったのである。哲学と科学との関係に就いての今まで述べたような近代の様々な解釈の空しい努力も亦、ここに始まるのだった。

 科学と哲学との関係を見るのに、之まで主に自然科学を焦点にして考えて来たのであるが、今度は社会科学を中心にしてこの問題をもう一度検べて見る必要がある。
 社会科学が、例えば現代のブルジョア社会学のように、極めて意識的に形式主義的立脚点を選ばない限り、社会そのものは、ごく常識的に考えて見ても、歴史の所産としてでなければ解決出来ない特徴を、あり余る程沢山に露骨に含んでいる。で、社会科学[#「社会科学」に傍点]はその実質に於て歴史科学[#「歴史科学」に傍点]と別なものではあり得ない。社会科学を所謂社会学[#「社会学」に傍点]から区別出来るという程度に於ては、社会科学一般は歴史科学一般と区別されることも出来、又歴史科学と史学(乃至歴史学)との区別さえも不可能ではないだろうが、そういう細かいことは後の機会に譲ることとしよう。今は社会科学を実質的に歴史科学と同じものと想定しておいていい。
 この社会科学乃至歴史科学は、今日に至るまで、自然科学以上に哲学と密接な連関を有っている。普通ギリシア哲学の起源、即ちギリシアの自然哲学の起源は、ギリシア神話(エーゲ海やエジプトから来た)の批判としてであったと云われるが、併しホメロスの名で呼ばれる叙事詩神話は、云うまでもなく歴史の起源でもあったのである。ギリシアに於ける民族的史学はギリシア=ローマのポリュビオスに至って世界史[#「世界史」に傍点]の段階に昇るが、併し之が同時に歴史哲学[#「歴史哲学」に傍点]の始めともなる。歴史哲学はヘブライ思想の系統を引いて(例えば聖アウグスティヌス)、やがて中世に於ける哲学一般(キリスト教哲学)の根柢をなすのだが、之へつながってその先駆となるものが、この史学乃至世界史であった。
 史学乃至歴史科学と、歴史哲学乃至哲学一般との関係は、だから極めて密接である理由がある。そしてこの点は今日でも依然として重大な意義を持っている。近代の科学的な歴史学はその経験的な事実の考証に基くという実証的な建前から、或るものは意識的に哲学的な夾雑物を斥けようとするのであるが(「本来あった通り」を記述する――L・ランケ、又バックルやテーヌの場合)、それとても夫々一個の哲学的な立脚点を想定せざるを得ない。そして大切なことには、夫々の哲学的な立場の相違によって、歴史記述の方法と従ってその成果とが、銘々全く異っていたり相反していたりせざるを得ないことであり(各種の精神史観・心理史観・「第三史観」・そして唯物史観)、そればかりでなく、時代と共に変るこの記述方法自身の変遷が極めて著しいのである(ホメロス風の詩的記述・「春秋」「通鑑」風の教育的記述・史料編纂的なもの・実証主義的なもの・「哲学的」なもの・等々*)。こういうことは自然科学の場合には、顕著な形では決して現われない事情なのである。歴史科学が哲学的世界観と如何に宿命的に結びついているかが之で判る。
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* B・クローチェ『歴史叙述の理論と歴史』(羽仁五郎訳)参照。
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 歴史科学から特に区別された狭い意味に於ける社会科学に就いて云えば、この点はより一層明瞭である。近代に至るまで、経済学(政治経済学)の発達にも拘らず、社会科学の正統的な代表者は、政治学[#「政治学」に傍点]だという通念が支配していたように見える。トライチュケが、政治学の他に社会科学(実は現代の「社会学」のことだが)なるものを必要としないことを力説したのは、この点から云って興味のあることだ*。処がこの政治学なるものは、敢えて政治哲学と云うまでもなく、古典哲学以来、哲学そのものの一分科であったのである。プラトンやアリストテレスは云わば純正哲学の応用や何かとして政治学を書いたのではない。アリストテレスの『倫理学』がそれ自身原理的に哲学の一ブランチであったと同じに、そのポリティカは、哲学の原則的な一ブランチだった。
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* H. v. Treit
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