の対立に、当然逢着しなければならなかった筈だった。そうすれば恐らく彼は、その単なる所謂構成説に、即ち模写説の単なる反対物としての構成説に、踏み止まることは出来なかっただろう。――だが一体所謂模写説と呼ばれるものの真理はどこにあるのか*。
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* カントの物自体に就いての解釈の内、最も優れたものはエンゲルスとレーニンとによって与えられた処のものである。彼等によれば、物自体、物そのものとは、カントが考えたように、現象(吾々にとって現われた物)と絶対的に隔離されたものではあり得ない。物そのものが現象として現われる[#「現われる」に傍点]のである、「物自体は吾々にとっての物となる[#「なる」に傍点]」のだ。物自体に対する不可知論は、この観念と現象の観念とを機械的に隔離する形而上学(ヘーゲルが使い始めた意味に於て)的な論理からの誤った帰結の一つに他ならぬ。エンゲルス『フォイエルバハ』、レーニン『唯物論と経験批判論』を見よ。――なお模写説に就いては、右の二著書の外に、マルクス「フォイエルバハ論綱」、エンゲルス『反デューリング論』其の他を見よ(何れも岩波文庫訳あり)。
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 模写説は普通の「哲学概論」によると、素朴実在論に立脚する認識理論だということになっている。と云うのは、認識されている通りのものがそのまま客観の終局の姿だ、という想定を有っているというのである。之によると色盲にとっては赤と青との区別は客観的に存在しないのだし、焔の次に現われた井戸水は氷の次に現われた同じ井戸水よりも遙かに温度が低いということになる。之は云うまでもなくナンセンスである、だから模写説はナンセンスに帰する、という筋書きである*。
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* 或いはもう少し真面目な批評はこうである。仮に認識が客観的な原物の模写であり、この原物と一致するコピーであるとしても、原物とこのコピーとの一致そのものの認識は再び又、この一致という関係自体に一致するコピーである。従ってコピーが果してコピーであるかないかは、どこまで行っても決まらないではないか、というのである。だが、コピーであるかないかは頭の内では決まらないかも知れないが、実践によって立派に決定される。――認識に於ける実践の役割に就いては後を見よ。
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