Politischen Oekonomie〕(小林勇複刻版)。――歴史学派に対する論争を含む。
** 日本の大学の経済学部教授の学位論文には、経済哲学のものが少なくない。近くは石川興二『精神科学的経済学の基礎問題』、高木友三郎『生の経済哲学』、杉村広蔵『経済哲学の基本問題』等。――但し主に経済学の方法論に経済哲学の名をつけたのは左右田喜一郎・杉村広蔵・大西猪之介の諸氏のもの。こうした「方法論」的なものを除けば、経済学と経済哲学との連関は極めてルーズなものに止まる。
[#ここで字下げ終わり]

 自然科学の場合、自然科学そのものと哲学としてのそれの方法論とを、形式的にそして又機械的に引き離して了ったと同様に(そういう態度は一般に方法論主義[#「方法論主義」に傍点]として批難されるのだが)、社会科学(乃至歴史科学)に於ても、科学そのものからその方法論を抽き離して、之を何々哲学と名づけるならば、社会乃至歴史科学と哲学との限界は、形式的に機械的に明瞭に与えられ得ることになる。だが自然科学の場合であろうと社会科学の場合であろうと、この仕方の一般的な誤りはすでに述べた通りだ。そこで社会科学ではこの方法論的なもの以外に、社会哲学とか経済哲学とかいうものが発生するのである。そして夫が、一般に社会科学又経済学自身と密接な交渉のあるものとして、一応認容されているというのが、ブルジョア社会科学の現状なのである。――処が自然科学の場合には之に反して、そういう種類に相当する自然哲学[#「自然哲学」に傍点]なるものは、寧ろ自然科学そのものによって排撃されるのを当然な建前としていたことを、思い出さねばならぬ。
 社会科学がこれ程哲学と宿命的な交渉があるということは、同一の社会科学そのものの間に立場の殆んど無限な対立が存するということと、同一の事情だったのである。つまり夫々の社会科学の立場が云わば異った哲学の数だけに、分裂しているのである。自然科学はその根本方向と過程とに於て単一[#「単一」に傍点]で唯一[#「唯一」に傍点]だという特質を有っている。学問上の見解の分裂と対立とはそれが研究途上にあるものとして避け難い当然な事情だが、それは、その分裂と対立とが一定の共通のコースを想定しているその限界内で起きる場合に限る。処が社会科学ではこのコースそのものに分裂と対立とがあるのだ。――自然科学は哲学と大
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