ったことで、同語反覆にすぎぬではないか、という人がいるかも知れぬ。だがそうではない。ここで常識化というのは、必ずしも科学の例の大衆化のことでもなければ啓蒙のことでもない。まして例の通俗化のことでもない。そういう連関に於ける関係はその場合に論じたのであって、今はもっと別な場面に就いて述べているのである。――科学の常識化とは、クリティシズム(批評・評論)の立場から、即ち私が想定する限りの意味に於けるジャーナリズムの立場から(ジャーナリストの最後の意味が評論家にあるということは広く認められている)、つまり要するに常識[#「常識」に傍点]の立場から(無条件に科学自身の立場から、ではない[#「ない」に傍点])、科学そのものを、科学の諸成果を、取り上げることを云うのである*。
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* 評論はその対象が科学であろうが何であろうが、いつも文学的乃至モーラリスト的な資格を有っている。之が普通の研究論文[#「研究論文」に傍点]などと異る点だ。そして又ここに、文学が他の文化領域相互間の媒介者として有つ普遍的な機能があるのである。――文学は小説や詩や戯曲のことばかりではない。科学時評[#「科学時評」に傍点]なるものの意味さえも亦、ここに明らかである。
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 この意味に於ける常識化によって初めて、科学は単なる科学自身の立場からは判らぬその社会的機能[#「社会的機能」に傍点]を明らかにされる(科学が社会的に存在し得るのは、云うまでもなくそれが一定の欠くべからざる社会的機能を営むからだ)。科学と他の諸文化との連関も亦、ここで初めて問題として正当に提出されるのである。文明批評の観点を離れて科学の批評は不可能だ*。こうした「常識化」の手続きを経ないで、直接無条件に科学そのものの切断面から社会や文化を議論しようとするから、科学専門家の哲学や世界観が往々にしてナンセンスに陥らざるを得なくなるのである。
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* この『科学論』自身も亦、こういう観点に立って初めて意味を有つのである。
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 科学の常識化、科学に対する評論、之は恰も近代哲学[#「哲学」に傍点]の最も好んで取り上げたテーマである。だからそういう哲学は多くクリティシズム(批判主義)を名乗ったのだった。但しこの種の(ブルジ
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