てである。研究手段から研究方法・叙述方法を通じて、実験的操作や統計的操作の運用に際してさえ、この方法としての論理が貫いているのだったが(前に夫を見た)、その集中的な表現がこのカテゴリーに於て現われるのである。自然科学の各領域は夫々方法的・論理的・な意味を有った諸根本概念(範疇)を持っている。物質・空間・時間・運動・力・場・生命・機能・法則・因果性・其の他がそうだ。こうしたものが自然界の現実の事物を指さしていることは云う迄もないが、それにも拘らずそれ自身は夫々一つの根本概念[#「概念」に傍点]以外の何物でもない。だからこの各々の概念が一つの概念としてもつ意味に就いては、常に歴史的な変遷が可能でなくてはならぬ。従って又一般の文化・哲学・他の諸科学・等々で用いられる根本概念との連関に於てしか、之は一定の意味を得ることが出来ない。こうした次第で、この根本概念(=範疇)こそが、実在性と社会性とを表わす二重性の所有者なのだ。このものが本来もつ論理的機能が、自然科学の(一般に科学の)論理性と社会性とを噛み合わせ又媒介する。
因果必然性の例を取って見よう。同じ因果必然性という言葉でも、夫を用いる範疇組織が異るに従って、その内容が全く別になる。機械論的(即ち又形而上学的・形式論理的)範疇組織による夫は、偶然性乃至可能性の絶対的な排除を意味する。そうした機械的な決定論或いは宿命論のための用語となる。之に反して弁証法的論理による因果必然性とは、寧ろこうした偶然性乃至可能性を一貫することによってしか実現しない処の、必然性のことだった。この例でも判るように、範疇組織のこの対立、形式論理と弁証法、機械論と弁証法との対立は、之を哲学的に換算すれば、結局観念論と唯物論との、思想上の[#「思想上の」に傍点]、イデオロギー上の[#「イデオロギー上の」に傍点]、対立に他ならない。形式論理や機械論は形而上学と呼ばれるが、夫は観念論の最も一般的な規定の一つであるし、弁証法は唯物論に帰着しなければならないのが哲学史の教える処だ(ヘーゲルからマルクスへ)。そして更に、思想上の、イデオロギー上の、この対立は、直ちにブルジョアとプロレタリアとの社会階級的[#「社会階級的」に傍点]対立に帰属させられていることを見るなら、科学の実在模写の論理や認識構成の方法に於ける論理が、如何に社会の階級対立に照応していたか、という
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