ュペングラーの技術主義的な歴史的予言、西欧(アメリカも同じだが)の文明は技術的であるが故に今行きづまりと没落とに瀕している、技術を超越した東洋思想こそ歴史の新しい段階へ導くものだ、という。アメリカのテクノクラシー(日本では最初の一カ月は極度に問題にされ次の一カ月には全く忘れられた)は、生産技術家の社会管理を提唱する。――こうした歴史理論や社会政策論が、圧倒的に盛りあふれる今日の現実問題を、てんでマスター出来ないことは、今更説明を俟つまでもない。
[#ここで字下げ終わり]

 生産力の技術性は処で、生産力の例の三つの内容に即して見出される。第一は労働手段に就いてである。普通、「技術」とは労働手段の体系のことだと考えられている。労働手段と云えば道具・機械・又工場施設・交通施設其の他などを、指すのであるが、それの体系というものが、もし仮に結局矢張り、之等労働手段自身のことを意味するにすぎぬなら、機械が技術でないと同じに、労働手段の体系が技術だという概念の決め方は見当違いでなくてはならぬ。併し又、もしこの体系という言葉が、個々の労働手段の加算以上の何かのプラスを意味するのなら(無論そうなければいけないだろうが)、この何等かのプラスなるものが何かという疑問が残るのである。そして単に、技術が労働手段の体系だと云っただけではこの疑問を解くことは出来ない。この何等かのプラス、「体系」という言葉が云い現わすXは何等か技術的なもの[#「技術的なもの」に傍点](単なる道具や機械ではなくて之に体系的に結びついた処の)だとでも云う他はあるまい。だがこれでは、「労働手段の体系」というのは、技術を説明するものではなくて、却って逆に、「技術的なもの」によって初めて説明され得るような観念でしかない、ということになる。
 思うに、労働手段の体系は、所謂技術そのものではなくて、単に技術的なるもの[#「技術的なるもの」に傍点]、生産力にぞくする労働手段に於ける例の技術性[#「技術性」に傍点]、の表現でなければならないだろう。生産力の一定の技術性(技術自身ではなく)こそ、「労働手段の体系」が云い表わす現物なのである。では所謂技術・技術そのもの、とは何かというと、之は単に生産力や或いは又それの直接の結果であり形式である処の生産関係などの領域だけに止まらず、広く社会的規模[#「社会的規模」に傍点]に於て理解され
前へ 次へ
全161ページ中108ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング