ルな規定とに於て、統一的に考察しよう。
[#改段]
四 科学の方法(その二)
科学の方法が、科学が反映する処の実在それ自身、そしてその意味における科学の対象そのもの、に基かなければならないということは、実は特別の議論を俟つまでもなく、云わば極めて当然な、健全な常識にぞくすることだとさえ云っていい。処がそれにも拘らず、所謂「科学方法論」や「科学論」、乃至それに準じる科学理論が、何故却って逆に、科学そのものをば、その方法によって規定しようとしたのであるか。之は依然として疑問でなくてはならぬ。
この点に就いて充分の納得が行かない限り、リッケルトやディルタイの方法理論のかの弱点に就いての吾々の説明も、決して充分だとは云えない。実はこの「科学論」式の主観主義的な態度には、それが系統を引いている夫々の観念論的哲学の背景から来る必然性を他にして、現代に於ける諸科学がおくれている或る一つの事情が、その無理からぬ動機をなしている。
と云うのは、現代ブルジョア社会に於ける、ブルジョア的社会諸科学[#「社会諸科学」に傍点](これは歴史学や文化諸科学を含むのだったが)が、同一の社会的乃至歴史的文化的な実在或いは対象をその対象とすべきであるにも拘らず、その現状から云って、蔽うべくもない理論の乱雑な無政府的な対立・撞着・矛盾に陥っているからである。そればかりでなく、ブルジョア社会科学とプロレタリア的社会科学との間の、到底相容れない建前の相違(部分的な合致に乏しくないにも拘らず)さえがあるからなのである。単に個々の理論に就いて異説が并立しているというだけではない(それならば科学が健全な発育をする時の必至の症状であって、又往々にしてその欠くことの出来ない条件でさえあるのだが)、夫々の科学そのものの根本的な建前[#「建前」に傍点]が、相互に根本的に相容れないのである。夫だけでない、もっと悪いことには、この二つの科学が互いに全くバラバラに無関係でさえあるのである。そういう点で、現下の諸社会科学程甚だしいものを見ない。
処で元来、それにも拘らず、夫々の諸社会科学が認識すべきであった実際乃至対象――歴史的社会――というもの自身は同一であるべき筈だったのだから、この科学の建前上の紛糾錯雑の原因は、客観にあるのではなくて主観になければならぬ。従って全くその方法[#「方法」に傍点]の間の紛糾錯
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