Kisch, Naturwissenschaft und Weltanschauung (1931) を見よ。
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現実の世界(之は哲学的範疇によれば物質[#「物質」に傍点]と呼ばれる)に対して、之の最も直接な第一次的反映として、世界直観が、所謂「世界観」が、照応する。だが之はまだ、科学的研究を意識的に進めた結果を集成整理して出来た世界観ではなく、そういう科学的反省以前の云わば常識的な世界直観である*。併しこの常識的[#「常識的」に傍点]に統一をもった世界意識は、云うまでもなく社会に於ける歴史的な所産物であって、本来イデオロギーとしての資格を具えている。ただそのイデオロギーがまだ極めて直覚的で無意識であるだけだ。この第一次の世界観のこのイデオロギー性は、諸々の科学的方法の発見に際して側面から有力な条件を提供する。例えばC・ダーウィン自身が自伝の内で云っているように、マルサスの人口論(之はブルジョアジーの前途に矛盾を発見した最初のブルジョア古典経済学だ)からその自然淘汰の観念を示唆された。又エルステッドの電磁気関係の研究はシェリングのロマン派的自然哲学に負う処があるらしい。
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* 常識はパラドックシカルな性質を持った知識である。だからこの言葉を何か判ったようなものと仮定して使うことは、甚だしい混乱を惹き起こすだろう。――後に之を分析する。
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併し一定の歴史社会的主観に由来するイデオロギーが、科学の方法の最後の決定者であることは出来ないことは、すでに述べた。否、この第一次の常識としての世界観そのものすら、そのままでは科学の方法を終局的に決定することは出来ぬ。現実の客観的な実在世界が、実は一定の方法を科学に向って指定するのだった(ダーウィンの進化論はイデオロギーよりも寧ろ農業技術の発達に依存している)。処がこの際、夫々の科学は世界の夫々の部分をさし当りその研究対象にするのであったから、科学は、例の常識としての世界観の出来上った全体的な統一をば却って一旦破壊した上で、自分にとって必要な限りの現実界の部分に照応しているだけの世界観の部分を取り出し、之を科学的方法的に仕上げることになる。従ってこの際、イデオロギーも亦、全体を以て作用出来ずに、単に部分的にしかこの仕上げに参画出来ない
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