的精神はまず足下の現実[#「足下の現実」に傍点]を掴むべき機能を持っている。もし日本というものが問題なら、日本的現実を把握するものは科学的精神以外にない筈で、科学的精神でない処の日本精神か何かがあるなら、必ず夫は食わせものであるのだ。科学的精神は日本に於てはまず第一に、日本的現実を掴まねばならぬ筈のものなのだ。
掴まねばならぬのではない、現に現代日本の科学的精神は最もよく「日本的現実」をつかんでいる、という一つの事実を、吾々は忘れてはならぬ。それを知らないか、又は忘れているか、見ぬ振りをするものは、各種の日本主義者だけだ。日本の現実は、諸外国に通用するカテゴリーの組み合わせによってしか分析出来ないこと、そうした日本独特の現実を科学的に解明しつつあるものは、一体どういう種類の人達であったか。で誰が本当に「公式主義者」であったか、公式主義呼ばわりをどっかから覚えて来た連中にそう質問したいのだ。科学的精神は尤も日本的現実を、いきなり日本文化[#「日本文化」に傍点]や日本人精神[#「日本人精神」に傍点]として掴みはしない。日本の現実は根本的にはそういうもので動いているのではないからだ。日本的現実は正に、日本の社会機構・生産機構を通して政治的に動いているのだ。分析をここから始めない限り、日本的現実の把握は歴史的でもなく又技術的でもない、つまり科学的でないのだ、ということを銘記すべきである。というのは、そうしないと、一切の日本論議が、恰も今日見るように、論理的にもならぬし、実践的にもならぬ、というのであり、筋も通らなければ物の役にも立たぬ、というのだ。
さて之が科学的精神の要求する処である。之によって日本的現実のもつ日本固有[#「固有」に傍点]の独特な特色も初めて正確に検出出来る。最近までのわが国の科学的な日本研究は、正にこの線に沿うて、部分的にしろ可なり着々と歩武を進めて来ていることを知らねばならぬ。この労作の蓄積とその方向とを無視して、徒らに、思い思いの落想のように、日本文化のあれこれの探究(?)を揚言することは、刺戟としての意味はあっても、何等日本の認識を日本人の自己認識を、富ます所以ではあるまい。――まして思い上った単なる文献学精神・引用精神・を以て、現代に至る「日本文化」を理解しようとするが如きに至っては、何の意たるかを知るに苦しむのである。
[#地付き](一九三七・三)
底本:「戸坂潤全集 第一巻」勁草書房
1966(昭和41)年5月25日第1刷発行
1967(昭和42)年5月15日第3刷発行
入力:矢野正人
校正:松永正敏
2003年9月11日作成
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