、技術的な、そして実践的な、規格を遵奉せざるを得ないものであって、事物の一片と雖も単なる文献と引用だけでは片づかないことが初めから明らかだからである。実験的研究から切り離された文献的研究が、正当な意味に於て今日の自然科学的研究でないことは、云うまでもない。――処が、それにも拘らず、この自然科学の背後にも、何等実証的なカテゴリーと関係を持たないような自然哲学的・観念的・精神主義的・其の他其の他の形而上学的世界観が現われることは、往々見られる現象だ。こうしたフラーゼオロギーは全く、文献的精神・引用の精神・の戯画であるが、それというのも、自然科学は自然科学、その背後の認識論の類は認識論、という風に、二つのものを切り離して考える俗物自然科学者の習慣に傚うからのことで、自然科学の研究そのものが、正に先に云ったように歴史的[#「歴史的」に傍点]な認識に基く所以を、理解しないからのことに他ならぬ。

 社会科学・文化理論・哲学・などになると、文献と引用との科学的・又非科学的・役割は、遙かに大きくなり又露骨になる。社会学の書物の或る種の一群を見ると、凡ての書物の内容の大半が相互の引用によって占められている場合さえあるのだ。支那訳を媒介とする仏教教典を古典的文献とし、それからの文句及びカテゴリーの引用によって今日の現実の社会現象・文化現象・を分析しようというのは、日本の僧侶学者や夫につらなる一群の精神運動家達のやり方である。国学の古典から社会理論体系や政治学組織や経済理論までを導き出そうというのは、日本の復古主義的・伝統主義的・国粋論的・封建主義的・な反動日本主義者の政治イデオロギーであることを、読者は知っているだろう。
 そこにあるものが事実、如何にフラーゼと引用とによって、論旨の要点を支えられているかは、一見して明らかだ。その極端なものは、古代神話の叙述からの文献的引用を以て、現実の社会の理解の鍵としようとするのである。周代の社会機構に基く処の、或いは寧ろ漢代に這入って、社会のイデオロギーとして定着したところの儒教の古典から、直接の引用・間接の解釈・を以て徳川期の社会機構に君臨しようとしたものが、所謂腐儒であったとすれば、日本古代社会の機構を離れて、国学的な引用を以て二十世紀の日本的現実を理解しようという者は、何と呼ばれるべきであろうか。――だが之は単に極端な戯画にすぎない。ここまで露骨にならない普通の相貌を呈した同じ本質の科学上のナンセンスが、今日至る処にあるのだ。
 本来の意味での引用は勿論、一つの実証的な行為だ。文献学上の実証が引用なのだ。併し今問題になるのは、引用そのものよりも寧ろ引用の精神[#「引用の精神」に傍点]にある。引用そのものではなくて引用の精神の漲溢、これこそこの復古主義的・伝統主義的・国粋主義的・其の他其の他の文化反動の魂をなすものだ。――日本的現実をこの引用精神によって理解しようという動向は併し、必ずしも所謂反動的な文化理論家の専有物ではないのである。大いに革新的(?)で従って又進歩的(?)な評論家の類にさえ、最近この精神は旺盛なのである。日本「古典」の再認識という名の下に、単に日本のこの極度に対立拮抗した現実から、古典成立の時代の文物の内に逃れて、思いをロマン的回顧に沈めるばかりでなく、更に逆にそこから出発して、この日本的現実――世界の現実につらなるこの日本的一環――をこの古典文献の引用によって、或いは引用の精神によって、処理しようと云うものは、今日決して少なくないのだ。而も事実、こうした種類の表現法を見ると、大方フラーゼと引用とによる美文(ベルレートル)にしか過ぎない。それは先から云っている経緯上、避け難い結果で、必ずしもこの種の評論家の趣味の不健全や能力の制限からばかり来るのではない。今日新しい評論が現実的ではなくて回顧的・復古的・だと云われる現象は、決して偶然ではないので、夫には認識論上の深い根柢があるのである。曲者は古典[#「古典」に傍点]その他の文献[#「文献」に傍点]の引用の精神[#「引用の精神」に傍点]の内にあったのである。
 処が引用の精神は単に回顧的・古典的・文献についてだけ発動するとは限らない。之は一般に認識上のエキゾティシズムとも云うべき、一種の距離感に発するとさえ云っていいようだ。回顧は時間的距離感に基くが、空間的距離感に基くものが外国文化摂取の際往々にして現われる。日本のインテリで邦語の出版物は日常の消耗品のように読む人でも、外国語の書物を何等か古典のように「文献」として読む人は多くはないのか。そこにおのずから、無用な引用の興味も起りかねないのだが、併しそれはまだいいので、ただの引用ではなくて外国文化を引用するという引用の精神[#「引用の精神」に傍点]そのものがインテリの精神の糧となるに及んでは、外国文化と日本的現実とのつき合せに、著しく混雑を来すことになる。で、或いは外国文化は西欧精神というようなエキゾティックなもので、従って日本精神とは凡そ別なものだとか、科学はヨーロッパのもので日本には不向きであるとか、云うかと思うと、今度はドイツ=ロマンティクがいつの間にかそのまま日本ロマン主義になっていたりするのである。
 ジードを「古典」のように「文献」のように読んだ人達は、やがて同じ調子で古典や文献のようなものを、日本の伝統というようなものに見出したくなるのは自然だ。そして伝統の内に――万葉や源氏をひもとく場合だ――却ってエキゾティックなものを見ようとさえするのが、今日の文化的伝統主義[#「主義」に傍点]の特色の一つに数えられるだろう。この不思議は全く、引用の精神、文献の物神崇拝、の無躾けなのさばり方[#「のさばり方」に傍点]から来る必然的な結果に他ならぬ。
 引用精神・文献精神・が、足下の現実について、本来の意味での実証的精神の規格を守らない場合、どういう誤りに陥らざるを得ないかが、これで判るだろう。元来文献精神・引用精神・は、文献学上の実証精神に基く筈であった。処がこの文献精神・引用精神が、独り勝手にとぐろを巻き始めると、すでにその元来の実証的精神などは吹き飛ばされて了う。民族の歴史的伝統を口ぐせにすることは、やがて民族の歴史的な事実を美事に抹殺して了うことだ。国史の認識が喧しくなればなる程、一定の国史史料は封鎖されねばならず、古典的文献そのものが改竄《かいざん》されたり否定されたりしなければならなくなって来ているのだ。
 ここに、歴史認識に於ける科学的態度と非科学的・反科学的・態度との、鮮かな対立が現われるのを見ることが出来るだろう。思い上った[#「思い上った」に傍点]文献精神・引用精神は、文献そのものをさえ破壊し、引用そのものをさえ無用にし又不可能にする。実証的精神[#「実証的精神」に傍点]の退潮後退が、文献精神・引用精神・をば非科学的・反科学的・にするのだ。引用精神の独裁が科学的精神の反対物を齎すのである。
 私はすでに、この消息を、文献学主義[#「文献学主義」に傍点](フィロロギー主義)と名づけて、現代観念論の方法全般に於けるその系統的な活動振りを批判した。哲学の方法としては之が解釈学となるものであり、現実の実践的変革の代りに世界をあれこれと解釈する自由な解釈の哲学=体系的なフラーゼオロギーとなるもののことである。之は今日の日本の自由主義・文化的自由主義・の哲学的支柱の一つともなるものであり、そして夫故に又更に、日本型文化ファシズムの支柱ともなるものだ(その点日本にだけ特有な現象ではないのだが)。
 文献学という科学は、云うまでもなく立派な科学である。それは歴史科学の絶体不可欠の認識手段である。もう少し広く理解すれば、夫はアカデミー的学殖をさえ意味する。そういう点から私は文化の思想水準と文献学的水準とを区別出来るとも思う。文献学的レベルは専門技術的な水準を意味する、特に広義の文学的学科に於てはそうだ。だがそれにも拘らず、文献学の哲学的世界観的拡大としての文献学主義に現われる処の、云わば文献学[#「文献学」に傍点]精神=フィロロギー精神は、もはや科学的精神ではない[#「ない」に傍点]。もし評論などに於ける文学的精神がこの文献学精神を出ないなら(文学=リテラチュア=文献)そういう文学的[#「文学的」に傍点]精神は正に科学的精神の正反対物だということを、記憶せねばならぬ。

 日本の文化常識では、科学というと自然科学のことだと思われている。必ずしも日本だけではなくて、科学的な社会科学[#「社会科学」に傍点]を信用しないブルジョア社会に於ては、どこの国でも多かれ少なかれ見受けられる処の現象だ。だが科学を自然科学に限定する合理的な理由は無論全く見出され得ない。科学的精神とは、自然科学一点張りのことや所謂「科学万能主義」や又「科学主義」とは、云うまでもなく別だ。科学主義の名に値いするのは例えばフランスのル・ダンテクのものなどであろうが、之は実証主義認識論の現代的形態の一つと云っていいだろう。そして実証主義[#「主義」に傍点]なるものと実証的精神[#「的精神」に傍点]との相違は、常識にぞくする。現代唯物論は実証的精神によって貫かれているが、実証主義は一種の現代観念論に数えられるのである。
 科学的精神は真の[#「真の」に傍点]意味に於ける実証的精神[#「実証的精神」に傍点]である。というのは、単に感性に訴え感性の保証を要求するだけではなく、その感性が主体的な能動性の発露面・出入口・の役割を担うのだ。つまりこの感性は実践と実験の窓なのである。之がなければ事物の時間的歴史的推移の必然性の内面に食い入って之に対処することが出来ない。科学的精神とはその限り歴史的認識の精神[#「歴史的認識の精神」に傍点]である。事物をその実際の運動に従って把握する精神なのだ。
 だが科学的精神の意味する実証的精神は、同時に技術的精神[#「技術的精神」に傍点]をも意味する。その意味はこうだ。実践や実験は要するに社会に於ける生産の技術から離れては、社会的に存立するものではない。社会の生産技術に触れない如何なる行動も、単に肉体の運動ではあっても少しも実践的ではない。世界を根柢から動かすことが実践の最後の意味だろうが、生産技術に関わりない行動は世界を根柢から動かすことは出来ぬ。実験のプロパーな意味は、こうした技術的機動力を有つ実践が、自然に対して働きかける場合を指す。そして実験が生産技術の水準によって直接支配されることも、判り切ったことだ。実験は産業と一つづきのものだ(実験室と工場との結合を見よ)。かくて科学的精神は又技術的精神である。
 事実、技術的精神によるのでなければ事物の歴史的認識を齎すことは出来ないのだ。科学的精神とは、歴史的・技術的・精神である。実践的精神と論理的精神とが夫だ。――で、フィロロギー精神が如何に非技術的で非論理的であるか、又如何に非歴史的で非実践的なものであるかを、考えて見るがよい。処が夫がなおかつ、一見歴史的でそして技術的なものでさえあるように見える点こそが、フィロロギー精神の魔術なのであり、フィロロギー精神・引用精神・文献精神・の思い上り得る所以でもあるのだ。論理とはただの思考のからくりのことではない、現実そのものの組立てのことだ。だから実践は論理に立って初めて成り立つ。実践と論理との統一、というよりも論理に拠らねば実践が成り立たないという、このただの一つの世界的宇宙的事実そのものが、つまり科学的精神ということの説明に他ならない。

 科学的精神はあれ之の精神の一つなのではない。普遍的な精神なのだ。ヨーロッパ精神でもなければギリシア精神でもない、日本的精神でもなければ東洋精神でもない。そういうものと並ぶものではないのだ。夫々の異った時代・社会の・現実[#「現実」に傍点]のある処に常に、要求されねばならぬ精神のことだ。云わば之は現実そのものの精神だと云ってもよい。――処でここからこういう一つの結論が出て来る。科学的精神の働きかける処は常に現実であり、常に目のあたりある処の現実だ。科学
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