のある場合もあるのである。このような意味の引用は尤も、絶対に必要なのでも何でもない。引用なしに話を進めることは常に可能だ。また相当優れた理論家にはそういうタイプも珍しくはない。だが或る程度まで一々の引用を実際に示すことは、論旨の進度を妨げたり自分自身の考察をスレッカラシにしたりしない限り、一種の親切と一種の具体味とを読者に感じさせる。そして之は科学的に云っても意味の大きいことだ。問題は示唆と啓蒙と教育とに関するからである。
でつまり第四には、単に出来る限り自由な観念連合を与えるような示唆のために、又夫々の問題について常識として又学界常識として心得ておくべき文献にリファーするために、示唆的な、啓蒙的な、引用があるのである。之亦科学的に意義の深い引用のタイプであることは、勿論だ。
大体科学的引用のタイプはこの四種類位いで尽きはしないかと思うが、この内にどうしても含まれないような引用は、恐らく科学的な引用でないか、科学的に無意味な引用であるか、それとも科学的に有害な引用だろうと考える。修辞の上で云えば随想的[#「随想的」に傍点]ともいうべき引用法がある。語を或る意味で「具体的」にして面白く[#「面白く」に傍点]する方法の一つだ。理論的分析も一つの文章となる限りは修辞の性質も持つのだから、この点関心に値いしないのではないが、併しそれは少なくとも、科学的に必要[#「科学的に必要」に傍点]な引用ではない。必要なのは寧ろ、科学的な引用と随想的引用とを、厳重に区別して使い分けることにあるだろう。
さて私は引用について少し長く述べすぎたようだ、元来、目的は引用にあったのではない。或いは寧ろ、目的は所謂引用というものだけにあったのではない。引用の精神[#「引用の精神」に傍点]が、従って又引用の正しい精神ばかりでなく引用の誤った精神[#「誤った精神」に傍点]が、思想、科学、其の他の文化技術の至る処に、意外な支配力を有っていることを指摘したかったからのことだ。
引用とは取りも直さず文献[#「文献」に傍点]の引用――形式的な又は内容的な――である。だから引用を科学的に意義あらしめるのも文献の役割ならば、引用を科学的に無意味・有害・ならしめるものも文献というものの魅惑なのだ。引用とは単に文章の書き方の上にばかりある問題ではない。元来物の考え方、検討の仕方、そのものに於ける引用精神[#
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