[#「すべからざるか」に傍点]」という論文もあるが、独りマルクス主義文献の引用に限ったことではない。寧ろ今日ではそうした引用はマルクス主義的論争に於ては過去のものとなった。引用の非科学性が色々の複雑な形で現われるのは今日では他の世界に於てである。私は実は夫を検討したいのだ。
科学的に意義を有つ引用はまず右に述べた公式としての引用であったが、之をもっと一般化して考えると、之は実は典型的、代表的、な所論の文章を引用することに他ならない。それが今或る事物について考察を企てようとしている私なら私にとって、賛成すべきものであろうと、又反対なものであろうと、とに角沢山あるものから代表者[#「代表者」に傍点]として択ばれたものが、引用に値いするのである。そう考えると、この型式の引用なるものは、極めて広範な領域を占めるもので、元来賛同意見と反対意見との夫々の代表的なものを引例することによって、自分の論旨を裏表から直接間接に証明するディアレクティックな方法は、理論の欠くことの出来ない実質をなす。引用はまず第一に、このような証明の方法[#「証明の方法」に傍点]という意義を持っている。
だが第二に、引用文が資料[#「資料」に傍点]の意義をも持っている場合の多いことは云うまでもない。考察の対象となる現象をば云い表わし[#「云い表わし」に傍点]ている言論を引用することによって、検討すべき対象に関する原資料が提供されるわけだ。論旨の証明に当ってその方法として役立つよりも、寧ろその方法の対象となる資料・与件・として択ばれるのが、この引用の意義である。この場合でも、なるべく典型的で代表的なものを選ぶのが当然であるが、併し資料は復原資料としての性質上、分量の上の問題も常に必要なので(単に統計を惹き出そうとする時には限らぬ)、代表的なものだけ[#「だけ」に傍点]に限定出来ない場合が多いのだ。
併しそれだけではない。引用の第三の形式は多分に対社会的な意義のあるものだ。と云うのは、例えば金融資本というテーマを検討するとすれば、金融資本についての従来の諸研究に一通り眼を通し、それに対する態度の決定とそれの消化とを用意するのが当り前だが、さて之を論文に書くなり何なりする段になると、筆者は自分がこの用意を怠ってはいなかったということを、一人の「学者」として、即ちそういう一人の世間人として、読者に示す必要
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