んでは、外国文化と日本的現実とのつき合せに、著しく混雑を来すことになる。で、或いは外国文化は西欧精神というようなエキゾティックなもので、従って日本精神とは凡そ別なものだとか、科学はヨーロッパのもので日本には不向きであるとか、云うかと思うと、今度はドイツ=ロマンティクがいつの間にかそのまま日本ロマン主義になっていたりするのである。
ジードを「古典」のように「文献」のように読んだ人達は、やがて同じ調子で古典や文献のようなものを、日本の伝統というようなものに見出したくなるのは自然だ。そして伝統の内に――万葉や源氏をひもとく場合だ――却ってエキゾティックなものを見ようとさえするのが、今日の文化的伝統主義[#「主義」に傍点]の特色の一つに数えられるだろう。この不思議は全く、引用の精神、文献の物神崇拝、の無躾けなのさばり方[#「のさばり方」に傍点]から来る必然的な結果に他ならぬ。
引用精神・文献精神・が、足下の現実について、本来の意味での実証的精神の規格を守らない場合、どういう誤りに陥らざるを得ないかが、これで判るだろう。元来文献精神・引用精神・は、文献学上の実証精神に基く筈であった。処がこの文献精神・引用精神が、独り勝手にとぐろを巻き始めると、すでにその元来の実証的精神などは吹き飛ばされて了う。民族の歴史的伝統を口ぐせにすることは、やがて民族の歴史的な事実を美事に抹殺して了うことだ。国史の認識が喧しくなればなる程、一定の国史史料は封鎖されねばならず、古典的文献そのものが改竄《かいざん》されたり否定されたりしなければならなくなって来ているのだ。
ここに、歴史認識に於ける科学的態度と非科学的・反科学的・態度との、鮮かな対立が現われるのを見ることが出来るだろう。思い上った[#「思い上った」に傍点]文献精神・引用精神は、文献そのものをさえ破壊し、引用そのものをさえ無用にし又不可能にする。実証的精神[#「実証的精神」に傍点]の退潮後退が、文献精神・引用精神・をば非科学的・反科学的・にするのだ。引用精神の独裁が科学的精神の反対物を齎すのである。
私はすでに、この消息を、文献学主義[#「文献学主義」に傍点](フィロロギー主義)と名づけて、現代観念論の方法全般に於けるその系統的な活動振りを批判した。哲学の方法としては之が解釈学となるものであり、現実の実践的変革の代りに世界をあれこれと
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