まで露骨にならない普通の相貌を呈した同じ本質の科学上のナンセンスが、今日至る処にあるのだ。
本来の意味での引用は勿論、一つの実証的な行為だ。文献学上の実証が引用なのだ。併し今問題になるのは、引用そのものよりも寧ろ引用の精神[#「引用の精神」に傍点]にある。引用そのものではなくて引用の精神の漲溢、これこそこの復古主義的・伝統主義的・国粋主義的・其の他其の他の文化反動の魂をなすものだ。――日本的現実をこの引用精神によって理解しようという動向は併し、必ずしも所謂反動的な文化理論家の専有物ではないのである。大いに革新的(?)で従って又進歩的(?)な評論家の類にさえ、最近この精神は旺盛なのである。日本「古典」の再認識という名の下に、単に日本のこの極度に対立拮抗した現実から、古典成立の時代の文物の内に逃れて、思いをロマン的回顧に沈めるばかりでなく、更に逆にそこから出発して、この日本的現実――世界の現実につらなるこの日本的一環――をこの古典文献の引用によって、或いは引用の精神によって、処理しようと云うものは、今日決して少なくないのだ。而も事実、こうした種類の表現法を見ると、大方フラーゼと引用とによる美文(ベルレートル)にしか過ぎない。それは先から云っている経緯上、避け難い結果で、必ずしもこの種の評論家の趣味の不健全や能力の制限からばかり来るのではない。今日新しい評論が現実的ではなくて回顧的・復古的・だと云われる現象は、決して偶然ではないので、夫には認識論上の深い根柢があるのである。曲者は古典[#「古典」に傍点]その他の文献[#「文献」に傍点]の引用の精神[#「引用の精神」に傍点]の内にあったのである。
処が引用の精神は単に回顧的・古典的・文献についてだけ発動するとは限らない。之は一般に認識上のエキゾティシズムとも云うべき、一種の距離感に発するとさえ云っていいようだ。回顧は時間的距離感に基くが、空間的距離感に基くものが外国文化摂取の際往々にして現われる。日本のインテリで邦語の出版物は日常の消耗品のように読む人でも、外国語の書物を何等か古典のように「文献」として読む人は多くはないのか。そこにおのずから、無用な引用の興味も起りかねないのだが、併しそれはまだいいので、ただの引用ではなくて外国文化を引用するという引用の精神[#「引用の精神」に傍点]そのものがインテリの精神の糧となるに及
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