いうことが科学的か。
実際的に仕事し得るということが、科学的なのか。又技術的ということがそうなのか。この辺になってくると事情は複雑して来るので、右から左へ片づけるわけには行かない。と云うことは、科学的ということが、少しも既成品ではないということである。
どの規定も、誤ってばかりいるのでないことは、勿論で、夫々尤もなのではあるが、何か最後の留め釘が欠けているように思われる。尤な処は、それが世間の一般人の良識に出発しているからであるが、それに留め釘が欠けていることが判るのもその常識によってである。如何に科学が一応は進歩をしても、それだけでは科学の観念[#「科学の観念」に傍点]は進歩しない。
丁度、文化のない部族はどこの未開地へ行っても見当らないが(彼等は必ず宗教と道徳と政治と医術と戦争技術と経済生活とを持っている)、文化の観念の独立していない民族は決して尠なくない、それと同じである。吾々は科学とは何かを、改めて反省しなくてはならぬ。科学はあるが、科学の観念はまだない、と云ってもいいかも知れないからだ。
私はこの頃、科学(自然科学をまず考えて)を物質的生産の一つの型と見ようという観念を懐いている。従来科学を可なり単純に、認識[#「認識」に傍点]という風に考えて説を進めるのが普通であったが、併し科学が科学的であるためには、「知る」ことだけでは留め釘が足りないので、現物を製造生産し得て初めて科学的と呼び得るのではないかと思うようになった。
科学的認識というのは、恐らくその必然的な副産物で、而もそれは再生産に利用して甚だ有効な副産物であるようである。今後は少し、この点を省察して行きたいものである。
[#地付き](一九四一・四)
底本:「戸坂潤全集 第一巻」勁草書房
1966(昭和41)年5月25日第1刷発行
1967(昭和42)年5月15日第3刷発行
入力:矢野正人
校正:松永正敏
2003年9月11日作成
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