この『ディスクール』の文章全体が果して純粋な美しいフランス語であるかはどうか判定の限りではない。多分良いフランス文であろうとは想像している。だが、デカルトのフランス語に対する功績は、そういう作文問題にあるよりも、勿論もっと根本的な処に横たわる。と云うのは、この俗語を以て最も厳密な思案の道具としたという、フランス語に対するその信任の厚さに、功績があるわけだ。之は一応は言葉や国語の問題ではあるが、だが決してそれだけの問題には止まらない。実を云うと、そういう俗語によって表わされる観念の問題であり、使われる概念の問題であり、運用されるカテゴリーの問題なのである。
するとこの俗語への信任は、全く伝承的な惰性を脱却した思考法への信頼、ということに他ならないことがわかる。逆に、そういう自分自身の苦心から始まる思案の方法、伝承的な惰性や又学者社会の習慣的な約束から全く独立した思惟、をやる決心、そういう思考態度をみずから例示しなければならぬ筈のこの『叙説』の如きはワザワザ俗語を使うことによって、或いは使いこなして見せることによって、その意義の疑うべからざる所以を実証し得なければならぬという理屈になる。つまり最も日常的な平俗な俗語によればよるほど、わが『ディスクール』の所説自身が、より実地に証拠立てられるわけだ。
尤も、この点になると、デカルトの恐らく極めて意識的に注意を払った方針にも拘らず、必ずしも極端に徹底しているとは云えない。と云うのは、時々、恐らくやむを得ないというような仕方で、この場合では学術上の寧ろ安易なコンヴェンションであるラテン語をば、説明のために括弧に入れているからだ。俗語ではなお不安だと考えられる個所もあるわけである。だが勿論そんなことは、揚げ足取り以外に、今大した苦情にはならないだろう。
フランス語で書いたのは、この『ディスクール』と、エリザベト女皇のために書かれた『パッション』論だけだ。尤も『メディタチオネス』や『プリンキピア』(いずれもラテン原文)の仏訳語については、デカルト自身責任を取っているが、処が併し『ディスクール』をフランス語で書いたという根本精神は、即ち「古人の書物」によらずに「生来の最も純粋な理性」によって物を考えるという根本態度は、実はもっと広く、デカルトの著述の全体を一貫する或る一つの特色としても現われているのである。
彼の著述態度或い
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