デカルトと引用精神
戸坂潤
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【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「序説」に傍点]
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Discours de la Me'thode〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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古くダンテがイタリア語の父であるとされ、又降ってルターがドイツ語の完成者と云われるように、ルネ・デカルトはフランス語の恩人とされている。ダンテの『神曲』、ルターの『新約聖書』の翻訳に、その意味で比較すべきものは、『方法叙説』と呼ばれているあの 〔Discours de la Me'thode〕 である(之は屈折光学と気象学と幾何学との後から書かれたものでこれ等の序説[#「序説」に傍点]の意味をも有っている)。これはデカルトの母国語であるフランス語で書かれた殆んど最初の哲学書である。而も人の知る通り、最も貴重な思想的意義をもった哲学書である。
それ以前の学術書で、ラテン語で書かれずにフランス語で書かれたものは、一つか二つしかなかったと云われている。学術用語として無条件の権威のあったラテン語を用いずに、日常の俗語であるフランス語を使って哲学の根本問題を論じようとしたことには、吾々が今日想像する以上の重大意義がなければならなかったと共に、又想像以上の決意をも必要としたものであったろうことを、思って見ねばならぬ。古典的な著書を、著述された実際の雰囲気の中にありありと眼に浮べて見ようと試みたことのある人ならば、誰でもこの推定をしないわけには行かないだろう。
デカルトは『方法叙説』の終りの辺で、みずからこの問題に解答を与えている。「私が私の先生の言葉であるラテン語で書かずに、母国の言葉であるフランス語で書いたのは、自分自身の本来の極めて純粋な理性しか用いない人の方が、古人の書物しか信じない人よりも、私の意見をよく判ってくれるだろうと思うからだ。良識と探究とを結びつける人こそ私の審判官として望ましいのだが、そういう人達は、私が自説を俗語で説いたからと云って、その理解を拒むほどに、ラテン語のひいきではなかろうと信じる」、と云うのである。
フランス語のよくは読めない私自身は、
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