あると云わねばならぬ。カントが主張する因果律の先験性は正にこの妥当性に外ならない。普通精神は自由の領域と考えられるが茲にも因果律が行なわれることは精神をも死せる自然と斉しく見得る限り許されうる。まして生命現象の自然科学的研究に於ては因果律がそのまま行なわれねばならぬ。ドリーシュ等の主張する活力説と雖も因果的な考察に矛盾するものではない。成程因果律の厳密なる形は総ての瞬間の出来事はそれに直接に先行する瞬間から一般的な法則に従って起きるということであり、そしてかく一般的な法則に従うということを習慣上 Mechanismus と呼ぶのであるがそれは決して空間内の物体の運動を理解する仕方のかの、Mechanismus ではない。而も活力説はただ後者と相容れないというまでであって前者とは何等矛盾するものではない。それが矛盾すると考えられるのはメハニスムスの二義を混同することに基くものである。活力説に於ても因果律は妥当せねばならぬ。併し因果律は数学的であることを述べたがかかる数学的関数関係はそれとは全く異る活力説の概念材料に如何にして結び付き得るのであるか、もし因果律が関数関係としてのみ妥当するこ
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