られた関係を直接に知り得るのではなく有限な速度の光線を介して認識するのであるが之は従来の実験物理学の信念と相容れない処であろう。併しカントの精神に従って築かれたる認識論によれば客観的な関係の厳密な意味での直接な認識はあり得ない。それ故此の変更によってカントに基く認識論は少しも動揺するものではない。ただカントは吾々の空間的な知覚が個々的に如何に決定されてあるかを問題としなかったまでであり吾々はただ之を補えば足りるのである。之に反して物理学の最近の発展は実在の思惟の形式から空間表象を又ある範囲では時間表象をも除き去って抽象的な或いは間接的な意味を有する座標を以て置き換えたという点に於てカントから離れると云わねばならぬ。併し之とても実在認識とはある関係を吾々に固有な主観性に与えられた形式によって云い表わすことであるというカントの根本精神に基くものと考えられる。ただ真にカントを離れる点は数学的概念を茲に応用するに際して多数の形式が可能であり又事実要求されるということに外ならぬ。即ち就中空間乃至時間的な規定を抽象的な量概念によって置き換えたが如きことはその一つであると考えられる。要するにカントと近代の物理学との多くの矛盾は実在認識の持つ二重の性質から説明出来るであろう。即ち直接の知覚と知的な思惟上の理解の仕方との二つである。カントは後者を眼中に置かなかったのであるが恰も之が近代の物理学の発達に相当するものでなければならぬ。併し又物理学が「直接に認識し得る」という誤謬に陥り易い時之を警戒するものはカントの時間及び空間の表象の思想でなければならぬ。

   三 因果律

 カントは第二比論に於て「継起する(存在し始める)ものは総て、それが或る規則に従って結果する処の何物かを予想する」というのであるが、かかる因果関係に於て特に一つのものをとり出してそれを原因と考えることは作為なくしては不可能である。そしてこのことは一義的な客観的意味を持つことは出来ない。吾々は寧ろある出来事に対して充足な理由をそれに先行する状態の全体[#「全体」に傍点]の内に認めねばならぬ。或いはかく云えばある一定の原因に常にある一定の結果が伴うということは云えなくなるかの如く見えるであろう。併し因果律の重心は法則[#「法則」に傍点]又は一般性[#「一般性」に傍点]の内にあるのである。それ故因果律を一般的に云い表わ
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